別にそんな大層なモンじゃねえ。15の時だよ。遺書を書いたんだ。 数学のノートを半分やぶっただけの紙キレに、「俺が死んだら骨は愛した海に」、我ながらくさい言葉であーあー汚い字だとおもったな。 無敵だと思ってたからよ。何もかもが結局自分のいいようにどうにかなると思ってた。刺されて、肋骨を折って、無免の原付で事故って、 それでも当たり前のように生きてた俺はこれからも当たり前のようにそうして生きていくんだと思ってた。中坊らしいだろ。まあ、実に好き勝手暴れてたからよ。 高校のやべえグループに目ェつけられて捕まった時は、はじめて、まじで死ぬと思った。 笑うなよ、リンチってすげえんだぜ。何せまだ中坊の体よ。 圧倒的暴力に息もできずに、明らかに体内の大事な部分が悲鳴あげててよ、視界ももうただ霞みが回ってるだけみてえになってて、 けどやけにはっきりした脳みそで、ああ俺死ぬんだわ、と思った。死ぬなら海がいいと思った。 胃液と血の味飲み込みながら、路地に逃げこんで、 ボコボコのコンクリートの上で、だから、それだけ書いた。書いてどうしようとか考えてなかったけどよ、馬鹿だから。 けど、書いてみたら、ゴミ臭い路地でボロぞうきんみてえに這いつくばった俺の頭は、その一瞬、真っ青な海の色でいっぱいになった。きれェえな、青だった。 それから、あいつが浮かんだ。深くて冷てえ海の色を背にして、あいつが、立ってた。ああ・・・・あいつに渡すか、これ。薄情だから、絶対ェ実行なんかしてくれねーだろうがよ。 想像にたやすい迷惑そうな仏頂面に、血が固まって動かねえ口元で笑いながら、そうして一番上にあいつの名を足した。
伊達へ

「・・・・・・・・・」
トクトクと透明な酒が音をたてて丸くなっていく。ゆるいリビングの光を映して、わずかに揺れている。 懐かしそうにあぐらに頬杖をついた手で口元の笑みを小指に隠していた元親は、逆の腕を伸ばしてそれを飲みほした。 その筋肉の動きだけでギシリと重厚な音がしそうだった。 信親はカーペットに寝転がりながら、ッあーと口元をぬぐう彼の結婚指輪を見上げていた。 まったく自分の父親ながら、でかい男だと思う。図体も態度も懐も、その全てを収めている器自体がライオン一匹軽々丸飲みできそうだ。 この男にもそういうピンチがあったのかと思うと何だか不思議だった。
「・・・・何だ。要は、ただのダチかよ」
「まあな」
「大恋愛の集大成かと思った」
自分の右手にある黄ばんだ紙キレをもう一度かかげる。
下手くそに歪んだ字で書かれた名前、そんな元親の最期の頼み、古い、匂い。お袋以外にこんなこと書く相手がいたんだな、 とからかってみたら返ってきた答えはそんな独白で、拍子抜けすると同時に、なにか内臓に響いた。
「女なんじゃねえの実は」
「ああ? 何だお前疑ってんのか」
「知らねえよ」
母親は元親を愛したし、元親もそうした。と、聞かされている。し、本当だったと思っている。
けれど、母がまだ生きていたとしても、こんな覚悟のような遺書を託されることは生涯なかっただろうな、とも、どこか遠い脳内で思う。
掃除の最中に偶然見つけたこの紙きれは、おーおーあったなそんなの!と元親に心底可笑しそうに笑われ、生き延びたもんだからひっぱたく勢いでつき返されてよォ、 酒を片手に自分の手からつまみあげられ、フン・・・と柔らかく目を細められた。 母も自分も知らない頃の元親が、知らない男の名前を宛て名に書いた、今じゃただの笑い話だ。 それでも、そのいきさつを話す元親の楽しそうな笑みと声にこもった何か(若い信親はソレをまだ知らない)は、彼らだけの過去を母と信親との間にぽかんと空ける。
蛍光灯に透けたその紙の、穴からもれてくる光が変にまぶしくてまぶたを薄めた。
「つーか、アンタ昔っから海好きだったんだな」
「そりゃァよ。どこまでも広くて深ーえ、海みてェな男とよく言われたもんよ」
「今もだろ」
「ま、俺もそうだが、あいつもなァ・・・・何つうか、色がよ・・・夜の青黒い怖さっつうか、夏のじりじり妬き焦がすような青なんか、 ああ・・・・・沈んだ底の冷たさのよ・・・何だろなァ。俺が海なら、あいつはその色そのものなんだろうな」
「・・・・・・・・」
独り言のようにつぶやかれるそれを信親は黙って聞いた。元親のような男と悪友をやっていたからには、その男も相当あくが強かったことだろう。 テレビの上にある海の写真の青を見ると、会ったこともない彼を知っているような気分になった。 古ぼけた紙きれから漂う、泣きたくなるような昔の埃くささが強さを増した。
伊達へ
でこぼこと曲がったただの苗字。昔、元親をアニキのように慕っていたという男たちには何人も会ったことがある。今でも訪ねてくる。 その度にわしゃわしゃと髪をかきまぜられ、むっすりするものだった。その中で、この名前は今日初めて見た。今まで聞いたことすらなかった。 そこまでは親しい仲じゃなかった証拠だ。 力を抜いた手に握っている紙が視界を覆う。なのに、 まぶたを閉じると、汚い路地にしゃがみこみ己の最期を予期した怪我だらけの若い元親が、この名前を付け加え終えた、ふてぶてしい笑みのような、瞳の奥ではかすかに愛しそうな、 そんな顔が浮かんだ。
薄情だから実行しない、けれど、その男は、元親の愛した海がどこかをきっと知っているのだ。
(・・・・なんか、大恋愛より悪い気がする)
頭の後ろに両手を組むと、ひらり鼻の頭をすべって落ちる。
この古びた紙の独特の匂いが、すこし、羨ましいとおもった。




2008年 べーちゃんに捧ぐ