コーヒー屋 リターンズ




土方は常々思っている。抽象画はわけがわからない。いったい何を描いたのか、何がしたかったのかがわからない。 わからないのにそこに潜む何だか底知れないパワーと得体の知れない魅力が視線を引き込んで離さない。 高杉の絵もそんな絵だ。
彼の絵はコーヒー屋の客たちに、定評がある。みんなふむふむと頷き、うーん、と、うなる。
土方は軽く首をかしげるだけで、まだ半乾きの絵の上にタバコの火を落として喧嘩になりかけたところを、いつもの客たちにいつものように止められたことも、ある。 まあ、あんまり興味がないのであった。
「だから、お前と映画観ると価値観が狂う」
「何の関係があるんだよ」
「感性という点においての問題」
土方はそう言って、食後のタバコに火をつけた。客の忘れ物である。一口吸ってあからさまに不満そうに眉を寄せている横で、高杉はぺらぺらと 美術展の図録をめくっている。パイプの根付を、右の奥歯でかじっている。それから、フンと鼻息を吐く。
「てめェがストーリーばっか重視してるからだろ」
「ストーリーなくて何が映画だよ」
「芸術」
「幅広めんなよ」
「広めてねえ。例えばてめェゴダールの」
「ああ長ェからその話はもういい」
「とにかくこないだの映画はよかった」
「主にどこが」
「色彩」
「・・・『色彩』」
土方は高杉を真似て繰り返してから、隣をしらけた横目で見て、長い煙を鼻から出した。 映画と芸術という広いテーマに関する論議は、 ハナからてめェに美術的感性なんか求めてねェ、求められたって困んだよ、 という二人の言葉でまったく相容れないまま結論もなく一応、終わる。
それまで一切聞こえなかった、いつもの客たちのいつものコーヒーをすする音が、静かな店内の音楽に混じり始める。 平穏な午後4時前である。
ボーンと時計が鳴った頃、高杉は上から左へと落とすようにめっくていたページを止め、数ページ戻し、 本をカウンターの上に置きなおした。あでやかな色使いなのに、暗々とした闇のような印象を受ける抽象画である。 隣の土方が曲げた唇の間からふーと煙を吐き出しながら、ちらり目をやる。
「気になったのか、それ」
「有名な絵だな」
顔を本の方向に傾けのぞきこんだ土方は、すこしだけ眺めて、ふうん、といった。
「お前なら描けるよそれくらい」
高杉は根付をかじるのをぴたとやめて、フィルターをはじいている土方を見た。 絵を知らないから言える土方は、見つめられていることに2回まばたきをしてから、眉を寄せた。
「・・・え、なんだよ」
「何が」
「いや、何だよって、いきなり」
「うるせェ」
太い本を背表紙からばたり閉じた高杉は、あちらを向いてその上に頭を転がした。ボツンといった鈍い音が痛そうだといつもの客たちは思った。 散った黒髪をしばらくいぶかしげに見ていた土方は、考えるのを諦めたように頭の横をかいて、客の皿をさげるため立ち上がる。 高杉の心に何かがすこし触れた時、ふてくされたような態度をとることをいつもの客たちは密かに知っているので、閉じたくちびるのまま下を向いて受け皿にスプーンを置きながら 浮かんでくる笑みを必死にこらえるはめになる。