コーヒー屋:5 土方 引く 高杉




「あ、先生」
おしぼりを蒸し器に詰めていた土方が外に目をやった。眼鏡の彼が土方の視線に気づいて、にやりと意地わるく笑んでから通り過ぎていく。
「寄ってかねえのかよ」
3つ目を手にした土方は、今日はやけに独り言が多い。
いつもの客たちは、それぞれ店に入った瞬間店内の景色にひどく驚いたせいであわや声を出しそうになったところを律儀に耐えぬいたところである。
今日は、もう一人の彼がいない。
土方がその機械の扉を閉め、一人カウンターに戻ってくる様子を見ながら、いつもの客たちはただ、 どんな顔をして座っているのが正解かということだけに困っている。
ばらばらの方向を向いたいつもの客たちは、まあ、一斉に店長の存在を思い出した。店長はカウンターののれんの向こうから決して顔を出すことがない。 存在感はさておき、どういう感覚であの2人を店員としてここに置いているのかという所からして不思議な人物である、 と思われているついでに、忘れられても、いる。
「・・・・・」
土方はブルーベリーパイの皿をさげて、その紫の点々をじっと眺めていた。 そして何か思いついた顔をあげ、はた、といつもの彼がいない隣に気づき、ゆっくり頬杖をついた。 それから、注文の紙きれに目を落とす。いつもの客たちはそれを見た。土方は、ふいにそれを三角に折った。いつもの客たちはそれを見た。 土方は、それを更にまた三角に折った。そして、三角のはしっこを右、いや、左・・・と自信なげにすこし動かし、すぐあきらめた。
そうして、紙をぐしゃぐしゃにした土方が、黒エプロンから鳴り出した携帯を自然と耳へあげる軌道は、 陽が西にのぼってく角度のように当たり前みたいである。
「高杉? ・・・・いや、それキアヌ・リーブス。違う。ヒュー・ジャックマン。違う。 ああ、ロバート・ダウニー・Jr・・・・が、次元大介? 無理だと思う。うんポカリ飲んでちゃんと寝てろよ」
土方の声だけ聞いていたいつもの客たちは、だてに2人の会話を聞いてきたわけではないので勝手な実写化キャスト案だろうと推測してみせたのち、 寝なければいけない状態で話す内容でもない、と、思っている。もちろん、 ポカリ以外にもたぶん飲むべきものがある、とも、思っている。
「・・・・・」
携帯をしまった土方は、いつもより暇そうに、タバコの吸がらを二本、カウンターに横にして並べた。 考えるように頭を傾け、その上に、今度は二本を縦に置く。 妙に真剣に座り直した土方は、横、縦、横、と吸いがらのタワーを積み上げ始める。ようやく5段目ができあがったところで、 組みかえた足がカウンターに当たるとそれはあっけなく崩れ去り、土方の手が無言の虚しさで残った。 いつもの客たちはとりあえず全員、目をそらした。
みんなの気遣いの瞳があさっての方向を見ている中、また携帯の音(キル・ビルのテーマ曲)が響く。
「高杉? ・・・いやそれくらいわかる。伊勢丹の伊。右。衛星の衛。門番の門。・・・あれ、おーいお茶の棒線て真っすぐ? 波線? あああったか〜いと一緒・・・ てか何で茶選んでんだよ。うんポカリ買って帰れよ」
いてもいなくても相変わらずである。
「・・・・・」
吸いがらをほうきとちりとりで掃除し終わった土方は、一人でカウンターに寄りかかって、店内の時計を見つめた。いつもの客たちは、土方と時計を交互に見た。 土方は時計から目を離さなかった。 いつもの客たちもつい時計を眺め続けた。
「・・・何で時間は進むんだ」
という土方の疑問がぽつり浮いて、「あ、そのための哲学か」とあっさり自分で答えていた。その語尾と一緒に携帯が鳴る。
「高杉? ・・・・・・・・・・いや、サンキスト派かな」
いやもう電話なんかいいから安静にしてろ!、といつもの客たちは土方が忘れているもっともな一言を胸の内から彼へ語りかけた。
その時計通りに、ゆるやかな午後3時は過ぎていく。 いつものコーヒー屋にいつもの光景がないだけで、すこし、思い出をどこかにわすれてきてしまったような気分になる。 けれど、いつもの客たちはカップから立ちのぼる湯気ごしに、彼の背中がそれ以上のセピア色の空気を出しているので黙っている。そうして、 「・・・いや、トロピカーナも嫌いじゃない」と一人時間差で答え直した土方に、(こちらも相変わらずである)、 といつものコーヒーを飲みながらぼんやりいつもの2人の会話を夢の匂いみたいに思い描くのだ。