ク:車のエンジンを切ると
高速を南下していると、空はじんじん青さを増していく気がする。 東京から離れたとうめいの匂いだ。 山崎は、日曜の渋滞に埋もれたカローラバンですうとひとつ息を吸った。フロントガラス越しに、晴れた車の屋根がずっと並んでいる。 踏んでは離す、アクセルの足。 生まれ育った町まで、あと、10キロである。 同窓会、というほどでもない飲み会の知らせが届いたのは梅雨の終わりだった。 背広の袖のほつれを気にしながら1LDKの部屋に帰り、ハガキを指で裏返した瞬間、山崎の体は故郷のひろい空気に吸いこまれた。 田舎くさい光景の潮風がつんと鼻先をふきぬける。 そのなつかしさは、昔の青春を思いおこさせ、まだ地元にいるはずの土方へメールをした。 『帰省のついでに、土方さん家、寄っていいですか』と聞いたら、『いい』と一言。 (変わってないんだなあ・・・) 苦笑して携帯を助手席へ放り、すこし窓を開ければ襟まわりにじわり蒸し暑いぬるさがまとわりついた。休日の明るい高速の中で、ド、ド、ド、と密かなエンジン音を感じる。 (午後から一雨きそうだな) 意味もなくえらそうに腕を組んでみて、しばし目を閉じた。 まぶたの中で、土方の白い制服のシャツがゆらゆらと浮かんで消えた。ハンドルを両手で握りなおし、 青の看板にしるされた地名をちらと片目で見上げてから1号線を前に見すえると、車の屋根があの頃みたいな夏の光をちかり反射する。 毎年夏がくると、山崎はセミの鳴かない道を思い出す。 広い公園横に伸びる、一本筋である。 通学路のとちゅうにあるその道はじわじわと温度の音がしそうなくらい、ひどくしずかに暑かった。 夏休みに見つけたその近道を、土方を後ろに乗せて毎日、自転車で通ったものだ。 土方は、高校の頃の1つ上の先輩である。せまい田舎の学校で、女はみんな土方が好きだった。 土方の、人を引っぱっていく道のあとのようなものに、後輩は惹かれた。いつからなんて覚えてない、 家が近所だったことから山崎は、彼を自転車で送り迎えするのが自然の日課になっていた。 「おはようございます」、あいさつしてみせる先の、だるそうな足音、汗でぬれた前髪。 地面に張りついた影が濃い夏の朝の土方は、むっつり眠そうで滅多に口をひらかなかった。 その体重を後ろにかんじて、いつものように山崎はペダルを踏んだ。 下り坂、シャーと流れるままにさせる車輪、浮いた腰。 緑の木が並ぶ道では、木漏れ日が頭上をすぎていき、信号につかまっているあいだ、薄ぼけたタバコ屋の段差に足を置く。 「あっ・・ついですね。午後から雨降るって言ってましたよ」 話しかけると、よく億劫そうな頭がトン、と無言でこちらの背中にぶつかった。 そのときだけ、周りの景色や音は消え、自分の体の存在や、汗のにおいをひどく意識した。 HRが終われば、土方は教室の入り口でカバンを腕と腰にはさんだまま、低音で、「山崎」、とだけ呼ぶ。 その瞬間は、自転車の鍵を握りしめながら、いつでも一度だけ胸がとっと鳴ったものだった。 帰り道は他愛ない話しかしなかったが、(飼っている金魚、潮風の向き、つぶれたバッティングセンターの話)、 駄菓子屋のアイスの箱から2つ選んで食べ終わり、 よりによって山崎が屋根の下から出た瞬間に夕立がきたとき、土方が低く笑った声をとてもよく覚えている。 今でも、すらり思い出せる、その道順と光景。 ただ、それが当たり前の日常だったのだ。土方のことを何とも思っていなかったといえば、うそになる。 けど、自分が彼に対して抱いていたそれは、紛れもなく憧れなんだと、信じたのだ。 夏休みも終わる帰り道に、一度、雨に出くわしたことがある。なんとも不思議な雨である。 叩くような雨粒のなか、急いでペダルをこぎ、セミの鳴かない道に入ったとたんそれは一気に止んだ。 雨音がうそみたいにぱたりと消え、通り雨が過ぎ去った透き通るような空の青の中、呼吸をするのもためらわせるような静けさを肌に感じていた。そうしている内に、 頭上で光るものを見て山崎は、あっ、と急ブレーキを踏んだ。こちらの背中に鼻をぶつけた土方が文句ひとつ漏らさない。 代わりに、黙って息をのむ気配だけがした。 ・・・何だ、あれ、と土方が後ろでつぶやいた。 「・・・UFOだ」 ぽかんと山崎は言った。 大きな球体の光はあたりの景色の中にぽつと浮かんでいた。口を開けて見上げる山崎と土方をしばらく照らしていたそれは、何回かまわってすぐ姿を消した。 あっけにとられてその残像をしばらく見つめた後、土方と目が合った。雲のすきまから、太陽の筋があたりに伸びた。 奇妙にすんだ夏の匂いが、ふうと土方のまぶたをすこしだけ細め、二人のあいだでじんわり空気が満ちた。 後にも先にも、二人きりでいる、とその時ほど心の底から実感したことはない。片手でハンドルを持ったまま、振り返っているくちびるをほんの数センチ近づけかけ、 さきほどの驚きで色んなものが抜け落ちた山崎は、その口で、 何かを言ってしまいたいような気持ちに駆られていた。それはふっと湧きあがってきたものだった。 一緒に、上京しませんか (いずれ、会社を立ち上げたりなんか、して。アンタの下で、働けたら。) 土方はすでに地元の大学へ進学することを決めていたし、自分と土方のつながりは学校への往復10分間だけだった。 地元の光る海と青い空は好きだったけれど、山崎は外へ出たかった。頭で先に結論を出してしまうのが、昔からの自分の癖だった。 何も言わずに黙ったままでいると、土方は何かを言おうとしたのか息をしただけなのか、唇をひらいて、閉じた。同時に二人だけの時間もそこでぷつりと切れ、 周りの葉の音が戻ってきた。 今の生活に、不満はない。 それでも、故郷の空の青さにはすこし、泣きたくなる。朝の自転車、帰り道、あの時の止まったような時間のあいだ、 あまり物事を口にしない土方は何をどう思っていたのか。 ときどき会社から帰ってきて暗い部屋の電気をぱちり点けたあと、台所でぼんやりしてる時なんかに思い出す。 懐かしくって喉がせつなくなるような青春のあの夏の青を、後ろの土方のことを、気づいていなかった気持ちを、思い出しては痛くなる。 (これが、きっかけなんだ。) 携帯に敷かれた、飲み会の知らせのハガキを見て、ぐ、とアクセルの右足に力を入れる。 ずっと車でくだってきた1号線を降りると、見覚えのある景色が近づいてくる。 色あせているようで胸に濃い、思い出の地だ。鮮やかな記憶の風が、さあと吹きぬけた。 土方は覚えているだろうか、登下校の自転車を、夏のあの光を。覚えているだろう、 山崎は今になってようやく確信があった。 土方は、自分の青春だった。 いまだに、あんなことを言いたくなったことなんて、あの時以外にない。 離れたくない、ついていきたいのだ、と強く思うことがあの人に対して以外、ない。 そして、あのまばゆいばかりの光が去った後の二人しかいない空気は、決して一人では作りあげられないものだということを大人になって知った。 あの雰囲気の中で、土方もきっと自分に似た感覚を持っていたはずだったのだ。それが恋愛じゃなくたって。あの時、一言でも言葉にしていれば、よかったんだ。 ハンドルを切れば、もうすぐセミの鳴かない道が見えてくる。 昔と変わらず、鳴き声ひとつ聞こえなかった。ちらり空を見上げてみたが、そこにはただ広く青いままの色が広がっていた。 あの頃は自転車で必死にあがっていた坂を、カローラバンで走ってく。 登りきった先には、毎日迎えに行っていた土方の家が建っている。 腹から、どくりどくりと血が登る。すこしだけハンドルを握る手に、力がこもる。 その家の前で停まり、ドアからあの黒い頭が見え、この車のエンジンを、切ったら。 ← |