首がいたくなった。
厚い上着に両手を入れたまま、馬鹿みたいにつっ立って上を見ているからだ。
彼女の部屋へ訪れるつもりだったのが、もう5分も外でそうしている。
駅からの裏通りを歩いてきたら、ここらでたまに見かける、アパート裏の石段に腰掛けた黒髪の男前がじっと空を見上げていたので、
(あ、)
と、つい自分も立ち止まって、同じようにしていたのである。
星を隠している雲と、つめたい冬の夜空。飛行機も鳥もとんでいない。やけに静かな空だな、とおもった。
地上では向こうで、チリリ鳴る自転車のベルの音が聞こえている。
ああそういえば、朝、天気予報が、とお姉さんの顔をおもいだしたところで、やっぱり雪がおちてきて、「あー」、口を開けて納得した。
しんしん。
首の後ろを手のひらでさすりながら、男前へ目をやると、ちょうどこちらへ向けてきたそれと綺麗に合った。
「雪だねー」
白い息で笑ってみせると、男は、くちびるの横を笑むみたいに静かにあげて、タバコの灰を落とす指へ顔を戻した。
その角度と、首の傾き方が、すうと目をひく。
(4才、5才・・・・いや、もしかしたらもっと、上?)
まあ、初めて見かけた時から、何か雰囲気のある人だとおもってた。
「お兄さん、声聞かせてよ、何してんの」
ひょいひょいと近づく。
コンクリートの表面からちぎれて散らばっている黒い石を、じゃりと踏んで正面を陣取った。男はちらとだけこちらを見て、タバコをざらざら潰す。
「忘れもん取りに来た」
「ふうん。たまに、ここですれ違うよね。・・・目、合うもんね?」
男の膝にさり気なく自分の膝をあてると、彼も、合わさったそこをゆっくり見た。
「女でも住んでる?」
「男だよ」
「そうなんだ?」
言ってみるけど、知ってる。3階の廊下で、開いたドアを支えた男に引き寄せられているのを見たことがある。
「俺は、あの端に女がいるんだよ」
「知ってるよ」
お互い様か。
ほんとは彼女のために買ったあたたかいコーヒー缶を3本指でつかんで出して、渡してあげたら、 雪のしみこんだ彼の服の冬のにおいが、すんと伝わった。
いつも見かける電柱のくぼみへ、目をやり、
「ここ車通れねえのに、何がこんだけ曲げたんだろうなー」
「思う」
「ね」
坂田はポケットに入れた両手で上着を広げ、一度背伸びをし、かかとをおろした。冬服を着ているときの待ち癖なのである。
「女のところ、行かねえの」
「んーやめた」
「彼女じゃねえのかよ」
「まーまー」
まーまーね。そのなにやら嫌味な笑みのくちびるの影が、夜を濃くさせるのがとても、いい。
初めて目が合った時からお互いの間に浮いてる、こいつとどうにかなるかもしれない、 という感覚を持ちながら、ただそのための言葉を、待っている。
目線の先の指が、タバコの箱をしまいこむ。
「一緒に来るか」
「うん」
じゃあ、と彼はごく自然に立ち上がって、太ももをはらった。
その足首が右左どちらへひねられるのかを待ってから、ポケットの小銭を手の中でいじりつつ、自分も、ごく自然に後に続く。
「アンタん家?」
「や、人ん家。抜け出してきたから戻る。他人が来たって誰も気づきゃしねえし平気」
ふうん。
すこしななめ後ろについて、うすい雪の降る道を歩いた。
電球の連なったイルミネーションが、点灯している。この時期に聞きなれた音楽が、きらきら、かかる。 人だかりを曲がって、ちょっとよさそうなマンションの階段を登りながら、
「なんで夜景の光って、ゆるゆる揺れんだろ」
「風」
「アンタ結構適当だね」
「・・・・」
手すりの向こうの景色へ、二人でしばし顔をやった。今日初めて話をしたにしては、 あんまり説明のいらない距離感に不思議な気分になるのはこんな日だからかとちょっと思ってみる。

「お邪魔しまーす」
「いらねえよ、んな挨拶」
4階の部屋の玄関に入ると、ちょっと遠い、牌をじゃらじゃらかき混ぜるうるさい音がしていた。 確かに、全く誰も聞いてなさそうだった。
「ちょっと、待ってろ」
こちらへそういって、彼は長い廊下の途中でドアを開け、顔だけ入れた。
とたんにむわと出てくるタバコの煙と生ぬるい空気と、とんでもない賑やかさが耳につく。
今年の年末番組はさァ
土方さん、もう椅子もソファーも空いてませんよ
はァ? お前肉まんくらい買ってこいよ
「いっぺんに喋んな。何言ってるか全然わかんねえ」
中の誰かへ鍵を放り、彼が俺をみて向こうを指さす。
「台所」
はあい。
彼がいったんその部屋に入った背後でドアが閉まり、また騒がしい音はむこうへ閉じ込められた。
広い台所へ足を踏み入れると、誰かが酔いつぶれて足や腕を曲げ、床に転がっていた。なんか濡れてる。 小さな黒い傘みたいな照明が、窓から入る明かりに逆に照らされている。 暖房がついていないのか、しんと寒い。
「電気つけねえのか」
空き缶を影の方に足でのけ、彼が入ってくる。
「いい」
スイッチに伸ばそうとした彼の指の、上から手を重ねた。
大きな冷蔵庫を背に黙った彼へ、ゆるいパーカーを肩からずり落としながらゆっくり頭を近づける。
合った目が、こちらのくちびるに落ちた。
顔を傾けると、つながるような動作で開いたそこに、触れる。一度離せばうかがう必要もなく、舌で舌に触れた。 パーカーの袖を右腕から脱ぎながら、そこだけはきっちり絡め合わせる。
ブオンンー、と冷蔵庫の音。
はァ、濡れたくちびるの角度を変えて残った袖を腕から抜くと、下に2枚重ねて着ているロンTの表面がきゅうに薄くなったような気がする。
きゃしゃな体に、ふっと彼の目線がきた。
「あ、いっとくけど、俺、高校生だよ。17」
目の前の彼は一瞬、目をまたたいた。慣れた反応だけど、なんか予想以上の驚かれぶりだ。
「そっちはいくつ」
「さあ、どれくらいかな」
どれくらいって何だ。
「アレ、ほんとに寝てる? ていうか何でローションまみれ?」
「・・・気にしなくていいアレは」
向かい合ったまま、妙な格好で寝転がっている男へ二人でちょっとだけ目をやる。
「ねえ、アンタ、土方ってゆうの」
「かもな」
だから、かもなって何だよ。彼の首横にそうっと手をかけてこちらを向かせ、さてどういくべきか、ちら、と上目遣いで見上げた。
タバコを横のシンクで消し、ふ、とすこし笑んだまぶたで見返される。
「好きにすれば、いいよ」
そんな色気を出されたら、嫌でもそうするよ。
自分のいつもの順序でくちびるを移動させ、指を這わせていると、ゴン、と彼の頭が壁にあたる。じゃっかん震えながら、きつく目を閉じ、 「・・・ッは、」、と息をあげる彼の顔を眺めた。
(ふーん)
短い会話と見た目しか知らなかった割には、いい男についてきたものだと自分をほめた。
向こうのドアごもりにたまに、わあっ、とあがる声や、外でしんしん降っているはずの雪。
静かな台所の、人肌。
彼の息。
背中と壁の間に腕を入れてその腰をひくと、こちらの肩をつかむ片手に力が入った。 そこへ皺ごと集まる襟周りにひっぱられながら、しめった首すじにすいつき、 自分の位置を固定する。彼の鎖骨に頭をつけて、自身を押し進めた。
「・・・ゥ、ア」
気持ちい・・・。自分よりだいぶ年上の相手に声出させるのって何か燃える。はあ、とあつい口を開き、目を閉じかけ、
あ。
ふいにまぶたを上げて、目だけで時計を探した。近くにかかっていたその針をみる。今ちょうど、12時を過ぎる。
あー・・・、
「クリスマス、きた」
音節も聞きとれない小さなうめきをくちびるの間から出していた彼は、は?と薄く片目を開けた。すぐにまたしかめて、 しばしのあいだ上へ向けて息をしながら、 手だけがティッシュを探している。それから、きゅうに「くふ」と妙に息をふき出した。腕の横をきつくつかまれ、肩に額が落ちてくる。あれ。
なんか、この人、震えてる。
「うそォ、なんで笑うの」
すっとんきょうな声が出た。揺れている黒い髪を、どこか困ったまま触って、その耳をなぞる。
(あー)
この人、べつに、そういうつもりで考えてたんじゃなかったのか。こんな日だからこそ誰かが欲しくて連れてきたのかとおもってたけど、 もっと単純だったのかな。
ヤベ、俺若ェ
痙攣が伝わってくるのをかんじながら、どうにも、人差し指で髪の隙間をかく。
「ふー」
少ししておさまったらしい彼は、つかまっていた腕から手を離し、一度ぽんとこちらをたたいた。
「メリークリスマス」
「棒読みだし」
ほんとに可笑しそうにしているその体に、くそー、ぴったり肌をつけ揺らすと、ん、ン・・・ふっ、とまたいらない笑い声が混ざった。 彼の肩へぐっと頭を押しつけ、・・・ふう、と余韻に力を抜く。
それから、汗のかいた前髪同士がまだ合わさったまますこしにらんだ。
「アンタねえ・・・」
「いや、悪ィ。お前らってそういうとこある」
言いながら、下に落ちているズボンを彼の足の指が器用にひっぱるのをみつめる。
お前、ら? 疑問に思いながらも、自分も上着を拾って、腕を通した。
もう一度時計へ目をやって、
「・・・まあ、」
まあおかしくないこともないか、とおもった。
こういう、判を押されたような日はいつも何だか突如笑える。わかる気がした。 縁のない他人と体を触れ合わせている瞬間巡ってきたのなら、確かに、なお更かもしれない。 ああそれも、お互い同じアパートに相手が住んでるんだった。そうか、それは、結構可笑しかった。


「手、つないでいい?」
「ダメ」
ダメって、何かいいな。
「じゃあなクリスマス」
「おいー名前みたいなってるよ」
送りに出てきてくれた土方が、コンビニの前で立ち止まったのを、振り向いた。
地面は濡れているけれど、積もってはいなかった。ななめにふく平らな粒になっている冷たく大きな雪、その後ろにいる土方に目を細めた。
「ん、じゃあね」
手を入れた上着のすそを前でクロスさせて、いう。土方は、お前はラッパーか、とこちらを見てから、あっさりコンビニの自動ドアへ足を向けた。
それから、ふと思い出したように上半身だけ後ろへ残して、
「寄り道せず帰れよ。もう大分遅ェからな」
「なーにー先生みてえ」
「・・・・・・」
「え、うっそ、マジで、詐欺だろ!」
「・・・お前の年のが詐欺だよ」
しまった、という顔をしてる彼の自分の目に映る様が、きらり、とかわる。うそだァ、ああーもったいない、する前にいってくれりゃもっと楽しめたのに。
「えー、ちょっとどこの学校?」
「はァ、塾だよ」
「おーいいね」
「なにがだ。さっさと帰れ」
すこし笑った彼が中へ入っていくのを完全に見届けたせいで、すこし後ろ足で進み、じきに軸足を残して体を半回転させ、歩いた。
「ふ〜う〜」
息の白さを確かめる横でうるさいバイクが通り過ぎる。 オオン、と遠くなるそれを耳に入れながら、立ち止まって、ちょっと、振り返る。
コンビニの明るい光。
それから、初めに彼と見上げていた、上。
こんな日に降ってくる雪と空をみていると、シャンシャンというあの音が聞こえてきそうな気がするから不思議だった。
だんだんうずうずと、さすが、クリスマスだ、キリスト教じゃないけど、おお、なんかもうなんだっていいよ! という素敵な気分になって、横断歩道の白だけを跳ねるように踏んで、渡る。やけに足が軽くはずむ。
理由は知らない。塾、探してやろうかな。見つからなかったら、あのアパートで張り込みだ。 いざとなったら彼氏の部屋から引っ張り出して修羅場にくらいなっても、いいかな。笑ってる口元に気づいてすこし手でおさえてから、角を曲がる。
いやべつに浮かれてないからね、 ぶつかりそうになった通りすがりのおじさんをくるりと回って避けて、 坂田はキラキラ光る25日の街をうたいながら帰った。


2007.