寄せては返す波のどこまでも続く音はやまなかった。 人間、同じ音ばかり延々聞かされていると気が違いそうになるやわな神経しか持ち合わせていないそうだが、 動物が大昔からそこで聞いてきた自然の音はやむことがなかった。 ぴかぴか、ぴかぴか太陽を反射する海面、肌色の砂が足の裏でたぶん熱い、なめらかな水平線はまるの断片。 やまない。まるでやまない。 ああなんて素晴らしき、か。 それが、当たり前のことだとそりゃあみんな思ってんだろう。 「自給自足?」 「まず、俺には無理なんだよね」 「だろうな」 「でも、そういう生活しに田舎にこもっちゃう人がいるんだってよ」 「何で」 「人生はじめて宇宙、見て」 「へえ」 価値観が変わるんだろうな。 長い煙をはいた間のあと、土方が言う。それから、人生観かな、独り言のようにぼそり言いなおした。 くちびるから出た白いそれがふわり揺れる。 「お前も行って、帰ってきたんだったろう」 宇宙へ 「・・・・」 返事のかわりに鼻から吸い込んだ、森の空気はまったく緑くさかった。揺れる葉の気配が濃く、こもれびが地上へと、ああ湯のシャワーみたいにふり注ぎ、 土方の顔や肩にも葉の形が落ちて、明るい陽の面積を陰らせている。 枝に隠れた砂浜を前に、陽射しが暑いといって森の終わりの影中で土方は座っていた。 彼にとってはたぶん唐突で妙な今の話をどう飲み込んだのか、海の方へと顔を戻している。 (青い。) その後ろで薄い亡霊のようにして、ただ重力にひかれる体で立っていた。目の前の景色に彼を収めて、ぼうと見つめながら立っていた。 とりあえず海に行く。この星へ帰ってくるなり口に出した申し出に、 あんがいすんなり付き合ってくれた土方の(こちらの大人しさに怪訝そうにはしていた)、箱の中身を一本出している音がカサと鳴って聞こえる。 その背中は命の息をしてそこにあった。命。海。森。この世界は大半がそれらでできているらしい。 ざざんとかえる波の音を耳に、周囲一面自然の中にある土方を、見る。 綺麗だった。 じんせいかん。ああきっともっと単純だろう その人はとても簡単なことに宇宙の中で気づいただけなんだろう 乾いた地面の土をつま先で蹴って、無意味にとばす。 細かく散るそれは光の中、あそこでみた星くずのように舞った。 (なあ土方) (まっくらだったよ) (宇宙は、まっくらだった) (そこら中で星がきらきらしていたけれど、なんだか体の中は氷みたいに冷たくなった) (木も水も風も動物も何もない。全てが死ぬ) (この星のどの生命をも受け入れない、ただまっくらな空間だった) (自分が生きているということがとたんに不思議になって、いっとき、すべてが恐くなくなった) (あとでその瞬間を思い返して、ふ、と寒気に芯が震えた) (黒い) (果てしなく黒く黒い他は何もない) (上からみえた月の地面にすら) (青も緑も何もない) (なにもない) (なにもない) (それだけが永遠のようにしてどこまでも続いている) 土方が、振り向く。 あたかも今のことが聞こえたかのように、そうする。木の影になでられているその顔に、ふいにぼんやりと瞬きをした。 いつの間にか取りこまれていた脳の裏側の暗い光景から、ぐいと引き戻された。 あの何もない黒い闇を塗りかえるように、ただただ自然の光が端から端へと両目いっぱいに広がってゆく。 陽に包まれる。波の音に包まれる。葉の匂いに包まれる。鳥の鳴き声がしている。 そして、土方はどこにいてもたいがい男前でいる。 それが全部血の速さになって、体の管の中を駆けてめぐる。 見返していた土方は、ちょっと眉をあげていたかと思えば、鼻で笑うようにくちびるのはしっこを持ちあげた。 「なんだ。ホームシックだったか」 黙った。そんな病気は絶対嫌で、黙った。 ちげえよ、と反論すればするほど、まるで恋しかったみたいに聞こえそうだから、目も閉じた。 普段、毛ほども気にしていない当たり前のように毎日くりかえされている生命の呼吸が、 変に恋しかったみたいで嫌だった。 まったく、この自分が、今だけはいったいどうしたことか、寄せる波の色に、さわさわゆれる木の葉に、 そこでお前が座っている景色に、思わず泣きたくなってるみたいに聞こえるだろう。馬鹿 そんな、宇宙をまの当たりにしたくらいで。 暗いまぶたの裏によく似ているあの色を見ていると、ふん、と、馬鹿にしたような柔らかそうなそれが聞こえて、ゆっくり目を開ける。 「おかえり」 森と潮風と波音とただ一面の青の命にかこまれた土方が、にんげんの低い、いい声でいった。 そうして、ああ、なんてすばらしき、と、あの歌のことばの意味がつかのまによくわかってしまうのである。 |