坂田へ電話をかけたことには、わけがあった。 理由もないのに呼びたい男では、彼はない。 一年疎遠だった坂田は、一週間ぶりのような口調で、タイミングいい今帰ってきたとこ、と言った。 自分も玄関で靴を脱いでいた。相変わらず妙なところで流れが合う。 「どっち。気分いいの、駄目なの」 「察せよ」 「ガソリンも入れてきたとこだよ。行こうか」 「・・・お前、道」 「覚えてる。大丈夫、すぐ行く」 下心でくるくせに、何が大丈夫だ。まあ、今それを望んでいるのは自分の方だった。 性欲のせいじゃない、それは食欲と一緒に著しく低下している。ただ、体力を消耗させてくれることで夢にひきずりこんでくれるなら、それでよかった。 ・・・携帯を、すこし額にあて、からからとしたまぶたを閉じる。 眠れないのだ。 波はひどく悪い。精神と体調とのそれが深い底で交じり合って、朝から不協なことをしている。 (何・・・で、あそこでニ萬切ったかな。) ライターを握ったまま、土方はしばらく床でだらしなく転がっていた。 過ぎた麻雀の勝敗なんかに苛々して仕方がないのは最悪な兆候で、ああ、きてるきてる・・・とおもった。 部屋は、暗い絵画みたいに薄ぼんやりとしている。 こういう日に天気が悪いのは逆にいい、とぬるい無気力感がよぎるのをかんじながらコンロに火をつけたところで、 玄関の開く音が聞こえた。 「寝れねえの、今回も」 「・・・眠いのは、眠い」 ふうん、と坂田は遠慮ない歩みでそこまできて、床に積んだ山崎の私物である鍋を物色した。 「一個持って帰ろうかな」と、つぶやいている。 別に構わない。山崎は構うだろうが、俺の台所としてむしろ一向に構わない。 「食欲どう。思考力は?」 「・・・あるわけねえ、わかるだろ」 「何か作ってやろうか」 「気色悪いな、どうした」 「俺今、アジア料理の厨房やってんだよ。ナンプラーの匂いって、クセになるよ」 中華なべを握ったキッチン服の坂田を思い浮かべる。感想を述べるのが面倒だ。 かつての坂田は、よく行く飲み屋の店員だった。 あるとき近所では有名な精神科で出くわし、あー・・・という顔をどちらもした。(坂田の方は、自分より厄介な躁鬱だ) 関係を持ったのは、自分が駅の椅子で「まれにみる泥酔ぶり」をさらしていたのがきっかけだったらしいが、介抱とセックスの記憶なんてほとんど飛んでいる。 目を覚まして部屋に彼がいることに、違和感がなかった。不思議な空気の朝だった。 その私服の寝起き姿を、ぼうとみながらまるで自然に2人、コーヒーを飲んだ。 ずいぶんと前の話だった。 この億劫さと、わけのわからない憂鬱感の辛さを坂田も知っていて、理解のある相手は楽だと思う。 タバコの先をコンロに寄せながら坂田を横目で見る。悔しいがとても元気そうだ。 「お前、躁状態か?」 「まあね」 「・・・怖ェな」 「あ、前髪燃えるぜ」 言われて、額にかかった彼の手を何となく退け、冷蔵庫から出そうとした ビールが床に転げ落ちた。(そんな簡単なこともままならないとき、一瞬で己が嫌いになる。) やけに大きく響いた音が、二人の空いた時間の長さを示すようにしん、と余韻をひいた。 拾ってプルタブを開ける坂田の話と、自分の相槌で、その間がゆるくほぐされる。 「目に見えない流れの力ってやつを最近感じるんだよね俺」 「例えば」 「信号につかまる運とか。続けて知り合いに会っちゃう、縁とか」 「それはある」 「一方的に降ってくるんだよ、躁も鬱も一緒」 「・・・・」 「山崎どうしてんの?」 「そこの部屋。最近帰らねえよ」 西側のドアをみると、平和な寝息が耳に浮かんだ。たぶん、こちらとは完全に違うあたたかい空気を羽織って熊みたいに眠りこけている。 「縁といえば、土方、友達できた」 「いない」 坂田が笑った。 「俺は、お前に友人がいないことを考えると、たまにすごく愛しくなるよ」 そう言うその目も、たいがい孤独な色をしている。 互いに、すこし黙った。 「土方は。代打ちやめて、今何やってんの」 「何も」 「潔い」 「山崎が、俺は仕事してる生活のが向いてるってよ」 「しちゃダメだよ。今は何も」 「わかってる」 語尾と一緒に煙を吐き出して、坂田ごしに時計を見る。朝の9時だった。 昨夜続いた麻雀の連荘は11時間ほどに及ぶ。病的に卓から離れられなかった。 疲れはわかっているのに、毒みたいに寝れない。 山崎が、もう帰ってこいと電話をよこしたのが朝の5時頃で、以降の着信を無視していると迎えにやってきた。 こちらの腕をひきずるように部屋から出し、車に乗せ、山崎が運転した。靴のまま座席に足を乗せている自分をちらっとみて、 もう、と息も吐かずに言った彼の声が残った酒と一緒に血を回る。だるい頭の遠くがくらりとする。 一言でいってしまえば、最近『調子が悪い』。 山崎もそれをわかっていて今日みたいに世話をやき、今月からついに居ついた。よほど酷く見えるんだろうと思う。 「アジア料理はいいから、温泉行きてェ。山上の」 壁に寄りかかるはずだった頭が崩れて、坂田の肩に後ろから乗った。 すこし振り向いたあやふやな髪の感触が耳にあたる。 「・・・まだ、開いてねえよ」 「じゃあ、11時に、なったら」 「・・・」 「いいだろ」 「いいよ」 肩骨の感触がずれた。顔をあげるのと同時に、ゆっくり隙間のあいたくちびるが落ちた。 坂田の手がコンロの火を切って、もう片方にシャツが腰下から開かれる。 「あいついるんだろ。声、ころして」 黙って、後ろ手をつき、生温い舌を肌にかんじた。 坂田とのそれは、どれだけ密着しても、雨雲の遥か上には薄い空があるようにどこか淡白だ。セックスの人格を割り切れる。 必要なものとそうでないものを、ゴミの分別みたいにきっちりと分けられる。 いいか悪いかは知らない。 ただ、どちらもどちらより幸福じゃない。地下のような低い場所で、波長が合う。 「手使うなよ。ちゃんと両方床について、して」 「・・・つ」 両手を台所のタオルで纏めてくくられた。それから坂田の体温の闇が暗々と視界を覆い、黒にとても落ち着いた。 遠い国の名前のように同居人を思い出す。休日の朝から、電話をかけエンジンをかけ。 これで、起こされでもしたら、不憫だな。 本格的に降りだした激しい雨の音が、頭皮に響いた。山崎が、明日まで続くと言っていた。山崎は、自分に 邪険にされた台所器具と一緒に持ちこんだソニーのテレビで、何が楽しいのか天気予報だけは毎日欠かさず2回はみるのだ。 「こっち、見て」 無茶な要求に、覆われた手の中でまぶたをあげようとするが無理だ。ひっかかる。痛い。 「見て、土方」 理不尽な、昔相手した教師のような声色。できない、もどかしい。それでも、 力にあふれてどうしようもない坂田は散々に勝手でしつこく濃厚だった。今の自分には羨ましい体力の下で3度もいかされた。 「あれ、何で鍋がこんなとこきてんですか。何か邪魔でした?」 昼になって山崎が起きてきたので、質問には知らぬフリで温泉に誘った。その寝癖がすごく、カローラバンに乗って一番に、坂田が笑った。 「ピカソの絵の隣に立ってても、おかしくないよ」 「芸術じゃないですか」 ぶはっははは(坂田の笑い声)、あはははは(山崎のつられ馬鹿笑い)。 車が減速して止まると、 山崎の声だけがハーモニーを抜けてこちらを向く。土方さーん、呼ばれて腕の下でうっすら片目を開ける。 「頭痛どうですか。やる気のなさはァ大丈夫ですか〜」 俺よりお前のまぬけさは大丈夫か。一人で陣取った後部座席で、足を組んだ。 「土方は今きっと気だるいんだよ」 「ああ・・・それでも寝れないなんて、重症ですねえ」 要らない察しをした山崎が、深刻なため息をつく。 「酒にタバコに、麻雀、セックスって、それだけで立派な役だよな。薬で、ツモだな。何処方してもらってんの土方って?」 「病院行くのも億劫みたいです」 「眠剤もらえば一発なのに」 「坂田さん、麻雀できるんですか」 「土方とはしないよ。こいつの勝負気は殺気だよ」 悲しそうな声が可笑しい。勝手な二人の会話を聞きながら、目を閉じてみた。 確かにだるい、でも、まぶたの奥できんきんしている疲れの塊が、釣り針でするように 意識をひっぱり、降ろしてくれない。そうさせる重たい魚はいつまでも野放しにのっそり泳いでいる。 「なァ、昨日こいつ、いくら負けたの」 「6万ちょっとですー」 椅子の後ろをおもいきり蹴った。 「舌噛んだ・・・」 口をおさえている山崎が、外からこちらのドアを開ける。 「紳士だねー」 坂田がのんびり言う。 「違うな、子分肌なんだよ」 評価を下げるつもりが、すこし得意げになった。 そこは、峡近くで温泉宿を営んでいるところが合わせて経営していた。料金は会員で一人600円である。 「でも、結局のところどうなわけ。男の金で暮らしてるのって」 「貰っちゃったものは仕方ないでしょ」 「ポーンと金と家置いて、南米だろ。奇特な奴もいるもんだよな」 「道楽ですよ道楽」 己も間接的にそれにあやかっているくせに呆れた息をついて、ロッカーの鍵を抜く山崎を睨んだ。 代打ちをしていた時、男に声をかけられ関係を持ち、家を与えられた。拒否をするプライドや意地すらを忘れさせてしまう、器の大きい男だった。 決して惚れはしなかったけれど、同じ男として好きだった。それが、半年前南米に飛び、それっきりだ。 そんな坂田たちのうわさ話を聞きながら、自分もロッカーを閉めるけれど、もう握力すらない。山崎が 鍵についた赤いゴムをこちらの手首にはめるが、そういうところに何かをぶらさげるのは嫌いだ。 今は特に気に障る。びろんと間に指を入れて睨んでいると、はいはいはい、両手に背中をおされふらついた。やばいよこいつ絶対溺れるよ、 坂田の声が先から聞こえる。 「うわー空いてる空いてる」 坂田がドアを開けるなりはしゃいで、かけ湯をした。見知りもしない中年がはっはと笑うのを聞くと、郊外だなと何となく思う。 「土方さん、こっち」 用意周到な山崎、(の割りに駐車券などの肝心なものを忘れてくる)が持ってきたスポンジは液体せっけんですぐあわ立った。 俺露天行こうかなー、坂田の独り言がぼつーんと反響している。山崎が勝手に消えていると変に腹が立つが、お前はどこへでも行けばよい。 ふと湯気の視界に入る手首を見上げた。 「お前、細いな?」 「痩せたんですよ。あ、土方さんのせいじゃないですから」 「・・・本当か」 「ちょ、嫌ですよ、なに言うんですか。こんな時だけしおらしいんだから」 そう笑って言い終わる前に、すこし泣きそうな眉をしたのを見た。 上半身はあらかた終わったが、屈むのがしんどい。 山崎が前にきて、こちらの足先を洗った。 そういうとき相手に情けなさを沸かせないのは、やはり子分肌だからだ。 湯に浸かっている子供のつるりとした肌がぼうと目に映る。それから、どこかの爺さんの笑顔の皺。 山崎の持つ網目の細かい風呂用タオルが、指の間をすべる。柔らかい泡がのこる。踵に移る。山崎は何も言わずにそうする。 丁寧な感触はそこだけにあるのに、腕や背中がむずがゆい。 急に 意味もなく名前を呼びたくなった。 コン、カーンと響く辺りの音を聞きながら、 夜中に突然大泣きする女の気持ちがわかる気がした。 誰のでもいい。山崎でも坂田でもいい。体内に沈んでいる何かが外へ出ればそれでいい。 辛いまぶたをおろして、乾いた眼球をかんじた。 「いつも、そういうことしてんの」 坂田の顔がのぞく。 「まさか。こういう時だけですよ」 そこで笑ったりしないあたり、嫉妬を避ける術が身についている。 その付き合いの長さが、妙に離れた頭の上で浮いた。それでも、恋愛には発展しないのだ。 「この温泉、打ち身にも効くんだってよ。ほんとかな。ちょ、土方みしてよ」 露天の石周りに頭を乗せたまま、鬱血した右手首を出した。ざぶり隣から湯の波がくる。 「・・・聞きたかったんですけど、それどうしたんですか」 「ああ俺がセックスん時ちょっと。まァ、あがったとき治ってなかったら、ここ訴えてやるよ」 アホかよ。あきれかけて、 「ちょっと! 大切にしてください! 体」 頭をすこしあげて、山崎をみた。 坂田もぽかんとして、同じようにする。 一瞬、何を言い出したのか理解しがたかった。 「アンタ達には、そういうところが欠けてる、そういう・・・」と山崎は続けたが、説教慣れなどしていない彼はそこでつぐんだ。 よくわからない無言の間が漂い、「いや、わざとじゃないんだってマジで。そういうの、俺もわかってるよ」、 坂田が山崎に手を回して叩いた。ドSが何を言うんだ、土方はおもった。 「ふーこうやって入ってみると、よいな温泉」 「でしょう。俺が見つけたんですよ」 「俺もこれからは時々ここ通おうかな、そんで土方ん家寄んの。なな、土方、どうおもう、いいだろ、大切にするから」 何をだ。子供みたいな、とってつけ方だ。 「好きにしろよ」 暗にこれから自分との関係をまたやり直したいということで、まあ、先のことなんてきざな言葉で言うものでもなかった。 坂田は、魅力的な男では確かにあるかもしれない。けれど、それを認めるのは遠い先でいい。 関係が完全に終わった3ヶ月後なんかに、他の誰かの嫉妬や、連絡をよこせとうるさいのを持て余して、 ああ、あいつはよかったと、すこし思えれば、それでいい。 あがって、牛乳を飲んだ。それぞれ違う種類を選んだがそれぞれ干渉はしなかった。 外は相変わらず小雨が降っていた。前方で山崎が、あっと間抜けに鍵を落としている。 昨日の麻雀の最後を説明すると、坂田が顔に片手をあてて唸った。その手に両目を塞がれたことを思い出した。 「微妙、だな・・・俺なら、っあー俺も勝負に出てテンパイかな、いや、」 「迷う間もなく勝負だろ」 「そりゃァ、判断早えよ土方は。土方は・・・・・・」 「・・・」 「んん、頭、いいんだし」 坂田の、雨を遮るためかぶっているバスタオル下の、銀をみた。 「俺も、山崎も、いるんだし。だから安心して、寝たらいいよ」 自販機の赤が妙に目に残った。別に何かが心配で眠れないんじゃない。だけど、朝焼けの色みたいに泣かせる声だとおもった。 案の定、駐車券が見つからずにごたごたとした後で、カローラバンがゆっくりバーの向こうに出る。 車内を、旅行帰りのような落ち着いた空気が包んでいた。 「あ見て、下すごい増水してる」 「翌日とかよく魚とれるんですよね、こういうの」 二人の会話に、寝転んだまま橋上の曲線をみた。ブリッジ・オーバー・トラブル・・・坂田が鼻歌とも何ともつかないメロディーを歌った。 何やら、ぼんやりとしか頭に入ってこない。 「・・・・山崎・・」 「はいよ」 あ、何が言いたかったんだったか・・・。 ブウウアン、と低い音を体の下にかんじながら目を伏せた。あったまった血。痛いほどだったまぶたの疲れがようやく眠気に変わってゆく。 声を出す力も抜けて黙る。坂田が、さり気なくラジオのボリュームをおとした。 「腹減ったな。旨いラーメン食って帰りたい。このまま高速乗ろうぜ」 「あ、いいですねえ」 靴脱いだら? 言われて、踵を押すと、下ろしたときに脱げ転がった。座席に乗せ目を閉じる。 着いたら起こしますよ、左端の雲のように浮いたそれを聞きながら、やっとまぶたの暗さを忘れた。料金所の電子音を過ぎると、 道路の滑らかさでタイヤが静かになった。坂田め・・・落ちる寸前でおもった。左で 座席を倒すのがわかる。雨の匂いは続いている。荒れた川に橋はかかっている。すこし、身じろぎを、する。 ひどく縁の淡い、深い夢をみる気がした。 ← 2008. |