「カレーが食いてえんだよ。カレーカレー、あの安いカレー。あんでしょ、そういうとき。いや自分で作るのなんて、面倒だもん。 だって、ちょうど看板が、みえたから」


そうして、こんな夜に土方は、カレー屋の窓の外を見つめている。
こんな夜に、いったい何が何だか坂田の勢いに押されて、わかったよと、言ったために、そうしている。 店に入ると寄ってきた店員の肩越しに坂田の銀髪はすぐ目に入ったので、 「何で制服なの」と聞かれた気がしたけれど、黙って、そうしている。
そうしながら、ついさっきまで見ていた灰色のくつ下の先を、思い浮かべていた。 几帳面な彼らしく、ほつれのないそれを、思い浮かべていた。
今日は日曜の夜だった。
この日曜の夜を境に、さっき、一年間は、過去になった。
過去になった、と考えながら、土方は、ただ、ぼうと窓の外を見つめていた。


好きであったと、素直に思う。

世界史の先生のことである。
教え方が丁寧でその裏に垣間みえる生徒のことを思う人間くささが、うっとうしくて好きだった。 当たり前の道徳をよく説くくせに生徒である自分の好意を受け入れ、教師としてではない言葉を耳元でいって、一年間可愛がった先生は、 同じ声で、今度結婚するという。
元から長く続くことはないと漠然とした予感があったので、静かにしている 土方の濡れた髪の毛を子供にするみたいに水色のタオルでぐしゃぐしゃと拭きながら、さっき、そう言う。 包容力の塊であるみたいな目をしている先生のすることには、いつでも文句が言えなかった。 (本当いうと、この前生徒達が噂していたから、知っていた。たぶん、みんな知っていた。)
けっこんか。
そう、けっこんだよ。
自分と全く関係のない遠い宙に浮いている字面は、なんて有無を言わせぬ大人の理由だ。 そんな風に彼の家を出て、一人で夜道を歩いている所に電話をかけてきたのが坂田だ。 その上、カレーカレーと子供のように言うのである。 余韻も何もあったもんじゃない。

(まあ、いいけどよ・・・)
窓には、こちらの様子が向こうに溶けて映っていた。
暗い中に並んでいる車のライトが白く赤く、見える。
いつもの何でもない夜の景色を、している。
坂田は勝手に2つ分のカレーを頼んで、 ソファー席に手をつく鈍い音をたて、胡椒や塩が立っている後ろへメニューをしまった。 背もたれに背中を預けて息をついたりしていた。
こちらのテーブルに比べて、かちゃかちゃと店員が食器を片付ける音が、よく響く。 あと30分ほどでラストオーダーの時間になる夜の11時は、ただそれにふさわしい客の入り方をしていた。
「・・・・」
何もすることがなくなったらしい彼を、土方はちらと視界のはしで見た。
いつでも眠たそうな坂田は、いつものように眠そうだ。学校にいるときとなんら変わらぬ表情で、 会話のなさに不自然さを感じさせずに、そこにいる。
向こうの壁に貼ってあるキャンペーンの紙でも見ているのか、口がすこし開いていた。
バカみたいな顔をしていた。
人の気も知らずに、そんな顔をしていた。
別に何を責めるでもない。そんな顔をしている、と土方は、ただ思った。

そうして黙っていようが何をしていようが、カレーはやってくる。
特に食べたいわけでもないのに、きてしまったものはどうしようもないので、白い布巾をスプーンから外した。 スプーンが三角に包まれている様子を見るのは久々とか何とかどうでもいいことを思った。
それからそれをカレーにつっこんで、腹も減っていないのに、食べた。
坂田はすでにさっさと食べていた。
ふたりで、黙々と、食べた。
何も話さずただ食べていると、どうして今日、こんなもうすぐ夜中になる時間に、 この坂田とこんな辛いカレーを食べなければいけないのか急にわけがわからなくなってくるが、食べた。
先に坂田が食べ終えた。それから、とうとつに勢いよく水を飲んで、カン、と机に置いたコップを掴んだまま頭を落とすのだ。
(うなだれるほど、辛かったのかよ・・・)
土方は、コップのしずくがぬるく溜まるのを見てから、目をあげた。
銀髪、まぶた、私服のパーカー。
こんな日に、カレーが食いたいといってきて勝手に頼んで、辛さにまいっている坂田。
そうして、有線の曲なんかを耳に彼を見ていると、坂田の周りに漂っている服のラインがなんだか、やけにやわらかい。
店内で電気にあたった髪が、ただ黙って前にいるその体が、へんに温度のある何かに、見えた。
夜のさみしいカレー屋の、ゆるい空気を感じる。
土方は諦めたみたいにため息をちょっとついた。

「お前、あんがい、いい奴だな」
そう、口にする。

あんがいってなに。こちらをみて一瞬の間をおいた後、涙目の坂田が言う。
あんがいはあんがい。言って、食べる。それ以上はない。そして2度と言わない。
まだ濡れている髪が、今さら額の上でつめたい。
坂田は指で頭の横をかいている。
それから横目でこちらを見ると、ふと髪から手を離して、ゆっくりくちびるを開いた。 けれど何も言わずに、また何となくそらされた視線が宙へ戻る。 自分がいったいどんな顔をしていたのか、とりあえず見ないフリをしてくれるらしい。
坂田の奴。思いながらさっさと早く食べ終わった。
それから結局空になってしまった皿を見つめて急に、ふ、と一人で笑う。 店内のオレンジの照明が優しくて淋しい。体が小さくなりそうだ。
カレーの匂いで満ちた店が、そこに坂田がいることが、今日から昔になった日々が、そうやってようやく笑えるのだった。
口元を親指でぬぐって、スプーンを置く。
坂田はいつもの顔をすこし落として、体を完全に横へ向け頬杖をついていた。
土方をす、と見てから、すぐに素知らぬ目をどこかへやって、言う。


「あいつ。殴ってやっても、いいよ」


「言わなくていんだよ、そういうのは」

最後まで、黙って流せ。
白布巾をテーブルに放って、伸ばした腕に頭を乗せる。
うん。坂田はほんのすこしだけ可笑しそうにして、やわらかく目を閉じた。
セーターの感触を頬に感じながら、あれこいつってこんな顔だっけ、ぼんやり思って自分もゆっくり、まぶたを落とす。
中で、夜のカレー屋の光がゆるゆるとゆれている。