100球、300円。
昔からパチンコ屋の近くにある屋内バッティングセンターは薄暗くて、出来の悪いカメラで撮った映画みたいな色をしているのが、好きだ。
照明にあたった床やボールが鈍く光る。影はすみずみまで濃い。
さっきから、土方がボールを打つ音だけ響いている、何十年間と人々に使いこまれてきた空間。
いかにも夜らしい空気と一緒に、外の気配がそのままセンター内をひたり包んでいるのに、ぜんぜん眠たくなれない。
(さびれてるせいだ)
坂田は、自動販売機横のコカ・コーラのベンチでうつ伏せに寝転んだまま、だらしなく腕をたらしていた。
「土方ってこれからどうすんの?」
「大学」
「・・・笑えないわーセブンティンブルーだよ」
近頃、じんわり疼く胸の内の言い訳だった。放課後や夕方、教室や帰り道で土方を見かける瞬間、最近気づけば浮かんでくるそんな気分は、 柔らかいようで、むなしいようで、ここにもよく馴染む。 この場所の錆びが寒くて、きゅう、と胸の中心が縮まるような感覚がある。
カコン
坂田は、その空気に伏せていたまぶたをあげた。
並んだボックスのど真ん中で、バットを構える土方の後ろ姿。踏み込んで、腕をひき、打つ。
「よっ!」
と、ふざけた大声をあげていたら、バットを肩の後ろまで振った名残の体勢で、「しつこい」、と、土方が言った。
(なんでだろうな)
と、坂田は思う。
気心がしれているのはすきだ。けれど、安いラーメンを食べてどしゃ降りに慌てて、 すこし走り疲れて入った、人のいないうっすらひやりとするこの空間で、よく響く笑い声は、出したあと余韻がどこか変にさみしい。
カコォン
(一回くらい空振りしやがれ)
長年色んな人に踏まれて黒くなっている床の汚れに、しんと目を落とす。
昔ここに通った子供がもういい大人になっているだろう古さには、自分まで妙に懐かしい気持ちになった。 そして自分も将来、ツレとよく行ったよ、野球部でもねえくせに、とかなんとか笑うんだろうな、と夢に思う。
「俺って、結婚すんのかな」
「占い師に聞け」
「こないだ初めてじゃがいもの皮剥いたんだけどさ、ぼこぼこなってるとこがどうしても剥けなくて」
「それが理由か? 単純だな」
「いや、そういう時よりも、一人で駅から降りて見た空がすっげェきれいだった時なんかに、コレを伝える彼女欲しい、と思うわけよ」
「ふ」
「鼻で笑った?」
「口で笑った」
起き上がり、自販機にもたれる。ベンチに置き去りにされている土方の帽子へ手を伸ばすと、先ほど替え玉で3杯食べたとんこつラーメンが胃の中でしんどい。
「・・・くそう苦しい」
「だから、言ったんだ」
黒い前髪のかかった目が前に戻り、バットが縦に一周する。
様になる全身。
緑の網の向こう。
・・・・アレが、学校の廊下に寄りかかっていると、よく、映えるんだ。 俺はそれを遠くから見つけて、土方ァ、って呼ぶ前に。ときどき、自分でも気づかず、ただぼうとした瞳で見つめていることがある。
カコォン
(不思議だ。)
会話と音、空間、雨のしずけさ。
特別なことがあるわけでもないのに、いったいぜんたい、何がこんなに切ないのだろう。
心臓に染みて、仕方がない。
この時間に意味なんてないのに、湧きあがってくる説明のできない何かが、ここの淋しさに押されて、血の流れに乗っかって、ぜんぶ胸の隙間に向かってくる。 そこから色んな感情があふれるくらいに埋め尽してしまう。なんでもない時が過ぎ去ってしまうのが、とても怖い。
それが、つらいのに、愛しくてたまらなかった。
頭の横を自販機にあてる。
「土方ァ、すきだよ」
一緒にいると楽しいけれど、なんか切ないんだよ
がしゃん、とフェンスの揺れる音がした。
片目だけ開けると、土方の振っていないバットが肩の上でそのままの位置に見えた。
見逃したらしい。
構え直そうとし、やめかけ、またあげようとしたバットが最終的にゆるい動きで下りて、土方がすこし振り向く。
筆先でひいたような目元の線はいつものままで、こちらを見返してくる。
照明の下でそれをしばし見つめ、急に怖くなって、ば、と帽子をかぶった。
「何か言ったか」
「別に」
「1球、無駄にした」
「ごめん」
瞳を帽子の影に深く隠したまま、ずるずる背中をずらした。上着をあつめ、襟に口元を埋める。喉が痛い。 こんなに何でもないときに、わけもなく締め付けられるように胸が詰まるのをどうにかしたい。
泣きたくなるくらいの。
「坂田」
急に、ぱらっと帽子を取り上げられ、不意打ちに明るくなった視界で、いつの間にかすぐそこにいる土方を見ながら、驚きすぎた目をごまかす暇もなかった。
「何つー顔してんだ。お前打てよ、残り」
「・・・なに。何で」
「集中なくした。てめーのせいで」
え。バットをマグロの尻尾みたいに掴んで差し出してくる土方は、堂々男前だ。どすんと隣に腰かけ、けれど、首をかいている心もとなさそうな指だけが、 きれいな影を作った。
坂田は、思わずくちびるを閉じた。
しばらくそうして、おもむろにがばり無言で立ち上がり、脱げかけていた靴を床でたたいた。
紐をきっちり直す。2重に結ぶ。
少々びっくりしている土方の視線を無視してずんずん歩く。土方のいたボックスの冷たいフェンスを開け放ち、ボタンを手の平で押し、奪い取ったバットを構える。 彼の手の体温が残っている。狭いエリアが伸びている。帽子を目深にかぶって、つばの影をつくる。
古びたバッティングセンターの匂いと、土方と。
この薄れた床の色のように、いつかは過去になってくこんな時間。
せいしゅんは、せつない。が、ああちくしょう、すっげえすばらしいともさ。
思いきり、振り抜いた。