地獄のスコセッシ




思い出せないでいる。
今から10分ほど前の過去とタクシー・ドライバーの監督の名前が、思い出せないでいる。音節さえ出てこない。まったく完全に、忘れている。 意味のないことで苦労するのは飽きるくらい嫌だったので、あきらめて寝てしまおう(それが、いい)、したところに、耳慣れた声が聞こえて土方はまた目を閉じ損ねてしまった。 自分をはさんだ路地の壁は黒々とした夜空へと伸び、近くのゴミの匂いで大事な嗅覚はとっくに鈍ってしまっている。
待ってろよ、という。
そばに転がっている携帯である。仕方ねェから、迎えに行ってやってもいい。だから。そこで。
待ってな。
「・・・・」
待ってな、といっても動けないのだから同じことだ、と土方は思った。
皮肉に、思った。
悔しいのだけれど、今なら彼の唇のことはもういくらでも想像がつくのである。 珍しく安心させてやりたい言葉が、 先ほどから何か食い込んでいて痛い腹奥から伸びようとしてくるのである。
まるで、死に際みたいだ。土方は地に伏したまま考えている。
死んでも優しい何かなどわかない、と信じていたのに、実に奇妙だ。 それでも走馬灯というやつだけが未だ巡ってこないことだけが不思議である。必死な時に思い出せず どうでもいい時浮かんでくるのは人の名前もたいがい同じだったりして、人生はいつでもタイミングが、悪い。
つくづく実感すると、今度こそまぶたを閉じた。
(実際はもう長いあいだずっと閉じていたのだが、土方がいうのは意識の膜のことである。)
たぶんこのままねむってしまう。
ああ、例の監督の名前だけが、惜しい。

惜しい、とそうして気づくと土方はいつの間にか、そこにいる。
そこはまぶたの中であり、脳内の箱であり、暗く、暑い。暑いが汗をかく気がしない。岩に囲まれた赤い池がぐつぐつと卵を茹でるときのように沸騰しているのが可笑しく、 なるほど、地獄の想像をしている、と納得した。周りには一人だけ番人が、いる。
彼だ。
「万事屋」

なにしてんだ、お前こんなとこで。
なにって、地獄の番人。
銀髪は、とてもあっさりと言った。

上から次々と降ってくる地獄に落ちるようなことをしでかしてきた者らを手に持った三股の槍(なぜ三股なのかは謎である) でいじめたおして骨さえも溶けてなくなっていくのをせせら笑う。
ふさわしいだろう
得意そうにいうので、無言で、頷いてやる。
ときどき赤い飛沫がこちらまで飛んでくるが、感触はなかった。感触がないということは痛くないということだった。
地獄のくせに、甘い。甘いならついでに、死ぬその理由が先ほどまではすこし知りたかったが、まあ、もういい。 おそらくはこれが当然の報いなのだろうと思う。(バカバカしいけれどここはそういう場所なのだ)
土方。銀髪が呼ぶ。いよいよ俺の番か。自ら隊服の上着を脱ごうとした。いや、どうでもいいんだけどさ。

スコセッシだよ。
え。
スコセッシだよ。マーティン・スコセッシ
・・・・。

「・・・・あー」


あー、といって、もういちど目を開けると、何かがやけに熱かった。
「ッ・・」
腹がドクドクとしていて額に一気に汗がふきだしてくる。痛覚がきっちりとあるようで鈍い。血が、流れ出ている。 いったい誰のちであろう。残った正気がぐるぐるとまわり、 起きろと生存本能とかおそらくは何かそういうものなんだろう、わんわん叫んでいる。
風は、冷たい。
「土方」
銀髪が、気づけば上からこちらをのぞきこんでいた。その全てが夜の影になっている。 息が切れているのが、手で押さえていようがばればれだ。馬鹿、笑わせるなよ。腹筋が、痛いから。
「お前、タクシードライバー、観たこと、あんのか」
「観た。昔に」
銀髪が答える。
ふうん。
自分の腕が彼の手によって彼の頭の上をくぐり、肩に乗った。状況はひどく異なるが、酔いつぶれた時とよく似た感覚で可笑しくもないのにまた笑ってしまうのだ。 ゆっくり地から引き上げられ、すぐそこで猫が鳴いた。すこし縁起でない鳴き方であった。見ようとした目の視点はどこかへいってしまっていて、遠近感が歪んでいる。
(地獄にこいつがいるのなら、それでも生きるしかない)
(まあ、ない)
さきほど銀髪に追い返されてしまった体を本物の彼に 支えられて、慣れない体勢に言葉が出ず、無言で歩く。 彼も何故だか何も言わない。いつもの皮肉も言わない。(土方の致命傷について考えているのかもしれない、 これでいて情の深い、奴だから) ずっと無言で歩く。そうだ。マーティン・スコセッシだ。ああそうだ、何だって思い出せなかったんだろう? 地獄のお前が、覚えていて。右手で濡れた腹を押さえた。なあ、こんな馬鹿馬鹿しいことって、あるか。 口に出して言ってみる。すぐそこで揺れている柔らかい銀の髪はいよいよ聞こえていないようだった。