営業を終えた後の店内は、まるで忘れ去られた宇宙船のようだ。 水アメみたいにぬめった壁があたり一面に広がっている。不思議なくらいの静けさの中でモップの音だけがきゅきゅと響き、 最小限のポツポツとしたちいさな明かり達が、フロアを浮かび上がらせていた。 残されたグラスの丸い縁は銀色を放ちながら、無言でたたずんでいる。 その真ん中につっ立っている純粋な金髪は、確かに異邦人の意としてエイリアンであるには違いない。 外では、夜の地平線がひっそりそこまで降りてきているはずだ。その中で、 賑やかなのにどこか淋しく光るネオンから、車で遠ざかっていく時間帯を金時は一番、気に入っていた。 いつもなら、それが1日で一番至福の時だった。 「アレ、金さんまだ帰らないんですか」 「んー・・・ん」 ロッカールームから出てきた新八がけげんに眼鏡を押し上げ、じゃァお先です、と踵を返す。横目で見送り、 かかとから脱いだ靴をぷらりゆらした。 別に好きでもない仕事場でだらだら残っているのは、ただ漠然と広がる人生のやるせなさのせいだ。 たまにはそのうすら寒い足元が、一人家へ帰ることを直前で躊躇させるのだった。認めたくない。認めたくなどないが、俺は今、わけもなく、さみしい。 皿に転がっているナッツをつまんで、憮然と見つめる。 奥歯で噛み、シー・ノウズ・ライフ・イズ・ア・ランニン・レース・・・・鼻で歌って歌詞を忘れた所ですんと鳴らした。 そのままカウンターに両肘と背を預け、平たい天井に向かって目を閉じる。 「あのー金さん、暇なら来いってボスがァ」 「・・・・」 (真っ暗だ。) まぶたの裏である。そこでは、歩いている道の輪郭もその先も何もかもが見えなかった。 一歩間違えれば踏み外しそうだが、今更どこへ落ちられるだろう。 とっくに未来の方角を見失っている意識は、つめたくゆらぐ宇宙の中だ。 どこまでも沈んでいけそうな底のなさに、気が遠くなるようで、どこかひどく安心する。 抜け出せないその暗い心地よさで、金時は黒い夜にはいつだって独りで包まれた。 「ハイー遅いネ、これだから金髪は信用できないヨ。パンパン、呼んだら、すぐ来る」 地下のドアを開けるなり、団子頭が手を叩いた。 仕事あがりに呼びつけられたいかにも面倒そうな態度で肩を傾けてみせ、ガリガリかく。 「荷物運びくらい他の奴にやらせろよ」 「一介のホストなんかみィんなこれくらいの星クズ」 「おいおい、外人さんに対抗できんのは俺だけだろ」 「新八いれば大丈夫」 あそう、と首をひねり、さっきからジャラジャラうるさい部屋の奥を見た。 4人の男が緑のマットを囲んでいるそこは、とんでもない量の紫煙と勝負のハクに覆われた別空間のようだ。 中国から来た神楽の仲間達は、毎晩食事でもとるような当たり前さで何連荘だって、麻雀を打った。 (よくもまァ、あきもしねえで・・・) 両肩を呆れておろしかけ、ふと目をあげる。もう見慣れたその顔ぶれの中に、一人視界の中で浮き立つ知らない黒髪が、あった。 まぶたを薄めて、すこし首を伸ばしてみる。 こちらに背を向けて座っているその頭は、自分になじみの深すぎる夜中の色だ。 金髪や赤毛、蒼や緑の瞳があふれ返ったここらで、どこまでも目を引くカラスの濡れたみたいな黒だ。それは、瞳孔を丸ごと飲みこむ闇色だった。 まさに、今さっき、自分が沈んでいたところと、同じ。・・・誰だよ、あれ。 「珍しい金ちゃん、麻雀に興味あるか」 「・・・ないな。俺が好きなのは、丁か半か、一発勘頼りの勝負だよ」 「は〜ん、じゃ黒髪ネ」 「まあね」 「勝負勘とリスクの覚悟、私だってあれはウチに欲しいネ」 「何つうの」 「土方。ホストでスカウトしたら雀士っていうから、無理矢理連れてきたヨ」 ・・・ふうん。土方。いい名前だ。響きに一本、芯がある。 捨てる牌を選び抜き、カチと前に出す彼の音はその名の通りの鋭利さであたりの空気をひびかせる。 風になったそれがこちらまで吹き抜け、自分の髪までざわり揺らした。 それは自分のとてもよく知る、サビくさい夜の匂いだった。ポケットの中で開けたままにしていたライターを、チン、と閉じる。 「・・・・」 「何考えてんの?」 黙ってひいた牌を手牌の端へななめに当てている土方の背に近づき、上からのぞく。ざっと場を見渡した。 (ふんーん・・・) 顎に手をあて、親の河から裏スジを読んでみる。4萬はカンで場に出切っているから、あーと・・・・・ 考えている内に、視界の隅で土方の指が動き、目で追った時にはすでに一番危険な六萬を切っていた。 「え、通らねェだろそれは」 思わず声が出るが、向かいの男はわずかに吐いた煙だけで舌打ちしたそうな雰囲気をし、牌は倒れず終わる。 土方は新しい煙草をくわえて、ちらり、直線の視線でこちらを見上げた。 「通ったろ」 綺麗にくっきり伸びる眉下ですこし挑発的な灰の右目が自分を、見る。 それから、後ろの蛍光灯で照っているんだろう金髪へ、妙にまぶたを細めてみせた。 (ああ・・・) 両目で瞬きをして、顎から手をおろした。 顔は確かにいくらでも金になりそうな男前だ、と思った。タイプだ。だけど、何よりその夜の髪色にぞっとした。 その寒気と彼の勝負気が骨の奥をふるりざわめかせ、とても心地いい。彼の持つ空気は、 まるで台紙にひかれた線をハサミできっちり切りとったみたいに、今自分に開いてる穴の形にぴったりはまった。 このさみしさの種類を、自分と同じその闇色なら、きっと、埋めてくれるはずだった。 「なァ」 土方の腕横のマットにゆっくり手をつき、その黒髪から見える耳裏を見つめる。歯で確かめたくなる肌色だった。 「アンタ興味ひく。何で、ソレ選んだの」 「麻雀は情報戦だぞ。今、言えるかよ」 土方が煙草をはさんだ指で鼻をかいて、もう片方で牌を移す。 「んじゃァ、後で・・・聞かせてよ」 「・・・・・」 「俺、車で、待ってるからさ」 そうして、暗に誘ってみると、煙をくゆらせたまましばらく無言でいた彼は、一瞬こちらへ目を流し、 「・・・後でな」 指先で四角い牌をひきながら、自分以上に低くいい声でそう返した。 よく知りもしないホストのお誘いにいとも容易く乗ってきたものだが、特に驚きはしなかった。黙って、髪の横をゆるく、かきあげる。 自分もこういう夜が続くと、簡単に誰とでも寝るから、よくわかる。 向こうも、こちらが癖でポケットのライターをつまらなそうに鳴らしている音を聞いて、 こいつも同じかと思ったかもしれない。 マットからするり手を離して、土方の耳の後ろ近くに声を残す。 「それじゃ、終わったら、来て」 「・・・ああ」 自分の手牌に目を落として答えた土方から離れ、神楽にしっかり渡されたダンボールを抱えて階段を登る。 もう営業の締めも終わっていたフロアで、車の鍵を持ちカウンターの上に座ってブラブラ待った。 また、『小さな恋のメロディ』の主題歌を口ずさみながらまぶたを閉じると、頭の遠くでどうでもいい最近の日常がよぎる。 彼が自分の闇と同じ色をしているのは、たぶん、そういうことなんだろうなとぼんやり思った。(シ〜・ノウズ・ライフ・イズ・・・・) 「アストン・マーティンか・・・」 「中古だけど。ま、乗ってよ」 一番で大勝ちしたらしいのに、さして嬉しそうにするでもなく土方の右手が財布を仕舞う。それから、 後部座席がない不便なDB9のドアを開け、助手席に乗り込んだ。 続けて逆から運転席に入り、狭くない?、乗り出した体を隣に向けた。土方がまぶたをあげ、前髪の毛先がすこし、揺れる。 ああ、それは、俺の居るべき、泣きたくなるほど、暗い黒だ。 なぜだか、切ないくらい、懐かしい。 その中にもぐり込んで小さな子供みたいに、膝を抱えてうずくまっていたい。 座席に伸ばした手をトンとつき、頭を近づけた。俺で影になった土方のくちびるが開く音がする。 「・・・名前、何てんだ」 「金時。・・・覚えやすいだろ」 距離が縮まり、金色と黒の前髪同士があたって先がまじる。 会話の名残のあるその顔をそのまま引き寄せ、初めはゆっくり口付けた。 土方はすこしくちびるをひらき、ポケットに手を突っこんだままダッシュボードに靴の踵をかけた。 「・・・不遜でそそる」 受け入れられたその口内で、しだいに深く絡め合う。 そうしながら、寝るスペースもない狭い隣に、その両足を体で割って移り込んだ。 窓に押しつけられた彼の手首と髪の毛がずるずると上にあがって残った。外音のない車内に、だんだん密かな息づかいと布ずれの音が閉じ込められる。 言葉もなくそれだけ聞いていると、世の中結局セックスしかないみたいでいやらしかった。 丁寧に素早くスーツを脱がせた肌にシャツの上から吸いつくと「、は」と土方の体がしなり、ゆるめたベルトの下へ手をすべらせる。 「ッ・・・ン、」 あったかい。 「仕事、楽しい」 「・・・お前は、どうなん、だ」 「時に虚無感を覚えるね。強烈に一人になりたいくせに、孤独は嫌なんだろうな。だから人と寝るのに、何か虚しいんじゃねえのかな・・・・たぶん」 その言葉に、ふ、とこちらにやった土方の目が、 鎖骨を甘噛みして舌でなぞると、再びつやを寄せて閉じられる。膝で開かせていた太ももが浮き、徐々に中へ入る自分と共に腰の服を掴んでいる足の指が、 ぎゅう、とずれた。 「ふ、」 金時は湿った息を吐き、黒髪の上に額を下ろして、焦点のぼやけたそれを視界に埋めた。 そこは、なんて真っ暗さだろうと思う。 その暗さに、未来なんて見えない奥まで取り込み、闇の腕で抱いてほしい。 光なんか目に痛いだけだ。暗闇は暗闇で、寂しさは寂しさで、孤独は孤独で、やるせなさを、物足りなさを、同じだけの負で包んで欲しいのだ。 お前の持つ、その暗く暗く黒い深夜の中で、この俺を小石みたいに深く沈ませて、いて欲しい。 強く腰を掴むと、こちらの揺さぶる動きに合わせて、細い髪が窓で擦られる。 「ッは・・・はっ、ンッ・・・」 単純に、さっきまで強気で勝負に出ていた土方との、落差がきて、その黒髪の束をあつい息で、噛んだ。 「夜の大雨って、最悪で好き」 上着に腕を通して、急に降り出した激しい音を聞きながら、くつ下さえずぶ濡れにするだろう水たまりを窓から見る。 傘をさしても体にまとわりついてくる鬱陶しい水滴や湿気を思い浮かべ、口はしをあげた。横で、耳に小気味のいいスーツの滑る音がしている。 「勘だよ」 「ん、何が?」 「さっき、お前が聞いたんだろ。アレは別に、ただ勘で捨てた」 土方がネクタイを首に回しつつ、実にあっさりと言う。 勝負勘と、リスクの覚悟、、神楽の言葉を思い出し、顎をかく。「向いてる職業他にもあんじゃねえの」、 言うと、土方はなにか唇をやんわり半分開きかけてやめ、外へ顔を向けた。手首の裏で時計をはめながら、 その姿に暗い影と薄い明かりの境が浮かぶ彼を見た。 照らしてもくれないし、 引っ張り上げてもくれないし、引きずり込みもしない。ただ、当たり前のように夜の中で、そこに居た。 形の無いそれを自分のモノになどできないだろう、 だけど、そういうことで、金時は何となく、いい気がした。決して明るくはないのに柔らかい、不思議な感覚だった。 窓に片手をつき、土方に体を近づける。耳下に唇を埋めると、煙草と洗い立てから一晩経ったようなス−ツのいい匂いがする。 「次も会いたい、なんて思わされたの初めて俺」 「・・・へえ、そうかよ」 「ああホストだと思って馬鹿にしてんだろ?」 「してねェよ」 まぶたの下から視線をあげれば、濡れた夜くらいよく知っているというように真っ直ぐこちらを見る土方の瞳がある。 会話の息がかかるくらい首に口を寄せ、その筋を指で上へとなぞった。 「俺とアンタって妙に合う気がする。・・・・側に、いれば」 「・・・幸せになりてェなら、他探せよ」 「俺、人間に求めてなんかねえんだ、そういうの」 土方はしばらく猫のように薄めていた目を、履きなおした靴元に落とした。 土方だって、初めて自分の金髪を目にした時に同類の気配を読み取ったに違いないのだ。 どちらもの少ない光の量はきっとどちらをも超えることはなく、まぶしさで煩わしくなることもないだろう。 ずっと愛用してきたシーツみたいにこれだけ肌にしっくり来る相手なんか、この先そう簡単には見つからないだろなァ、と、 あまりにも途方がなさすぎて金時はどこかひと事のように思うのだった。 その裏側で、無理矢理連れてきたらしい神楽には、ぼけと感謝をしている。 土方の手に指を伸ばしかけ、・・・爪の先だけ右手でとった。 「じゃ、まあ、さみしい時は俺呼んで。次はカーセックスじゃなくっていいからさ」 「さみしいのは、お前だろ」 土方は初めて、唇のはしですこし笑ったがそれもすぐに元に戻った。 まァそういうものはこれからでいい。しかし駄目だな。 本気で口説くことがこんなにも恥ずかしくて難しいとは知らなかった自分がむず痒く、手を離してもうそれ以上の会話を打ち切った。 止んだ雨を確認して、さっさと運転席へ足を入れる。 (一度寝たくらいで関係が始まるほど、互いに律儀でも誠実でもないことはわかってる。それでも、 土方はどうだか知らないが、行きずりで終わる気なんか金時にはさらさらなかった。 だって、少なくとも家にすら帰れないような情けない孤独からは、知らず、解放されているのだ。) 「さって、送るよ。家どこって?」 「・・・教えたら押しかけんだろう、お前」 ま、そりゃァね。 鍵を回してエンジンをかけた。シートベルトをカチリ締め、フウ、背中をつける。 それから、前方を見て、しんと口を閉じた。 フロントガラスに映る街の光を見つめると、いつでも体の感覚が遠のいてゆく気がした。 どこでもない夜の中に、精神が離れてぽっかり浮かぶのだ。その奥から朝を察した眠気のやってくる気配も、する。 隣の両目も同じような色をし、黙って窓から淋しいネオンを眺めていた。輪郭が照らされ、奥の影が濃い。 やがて車が走り出すと、窓の縁にトンと頬杖がつかれた。・・・警察官になりたかったんだよな、昔は。静かに目を閉じ、土方が独り言のようにつぶやく。 線になった夜の光がよぎっていくその横顔をちらと見て、・・・・うん、ハンドルを切りながら、ゆっくり青み出した空に、自分もすこし、まつ毛を落とした。 夜明けはただ必要とする人にだけ訪れていれば、それで、いい。 ← 2007. 「弟にしないで〜」はハナシ、その後オマケたちはハイザラに |