起きた目で一番に、電線を見た。
始まったばかりの色をした淡い空に、6本の黒い線が風でかすかに揺れていた。
不思議だと思うのだ。 それは朝に見かけると爽やかで、夕方の赤に映せば淋しく、思い出の中ではいつでも、すこし切ない。 どちらにしても、銀時はそれを見ると決まってその下を走りたくなる。
「ん、うー」
彼の煙草臭い布団内で、まず筋肉を伸ばす。全身の力がぐうと背骨を登って、肩からふっと息になる。 やがて、ぼんやり眺めていた川上を電車が通る知らない景色は、あくびの涙で印象派の絵画みたいに薄ぼやけた。その隣で、 あいつが買ったというシャープのテレビだけが、大きく確かで黒々とした輪郭をしていた。
(嘘らしいほど、現実的だ。)
横目でしばし見つめ、素っ裸のままフローリングに乗せた親指を曲げる。 すべりこんでくる風にまぶたを閉じ、とくり脈の音を聞いた。 まだ底に沈んでいる一日分の血を、そうしてつま先から重たそうに引っ張りあげる朝の密かな力が、銀時は嫌いじゃなかった。
「よいしょっと」
下着を拾い、バランスをとりながら足を入れる。猫のように床の音をたてないよう、気をつけた。
缶ビールと、吸殻。パソコン、時計、スタンドライト。
全体的に、無機質。
横目で見渡し、足元へ戻す。
(・・・泊めてもらっちゃった。)
兄貴の、恋人に

「ん」
後ろで声がして、咄嗟に手の平で口を押さえた。そうと振り向いた先のまくら上で、黒い前髪が散らばっている。 あいつと同じように夜行性である彼のそれには、朝日がまるで面倒くさがってるような億劫さを持って薄々と射していた。
「・・・土方? 起きたの」
とたん、布団からはみ出していた足がひっこむ。のぞきこんでみると、土方はしかめて閉じているまぶたの下で、無造作に鼻の頭をがりとかいた。
(うわ、子供みてえ。) 思わず、息をふく。
そこへ柔らかく手を伸ばしかけて、
「・・・・・・」
直前で胸前まで戻し、自分の前髪をゆっくり、かきあげた。
昨日学校で起こした喧嘩の傷がかさぶたになって、ざらざらしていた。 爪の先でかいて、はがす。そうするにはまだ早くて、すこし、痛い。
今視界に入った、棚上で転がっているボーム&メルシエの腕時計は、 憎らしいほど似合うだろうあいつの白い手首周りで、夜によく映えるゴールドだった。 そうして、土方は眠たげな声で朝の光に背を向ける。
わかっていた。
昨日のことは、昨日のことだった。 日常の線からはみ出した、小さな靴先だった。いつもの朝練のメールを見て、いつものランニングシューズが入った部活のバッグを確かめてしまえば、 これから向かう白い校舎周りが、自分のトラックだ。 よし、と床で丸まっていた制服のズボンを広げる。見れば、昨夜土方の足うらに敷かれていた部分が、確かな皺になっている。 つい、握っていた手の力をゆるめ、土方の髪に目を細めた。
彼と初めて会ったのは、昨日である。
あいつと一緒にいるような、それも麻雀で食っているような男 なんて、どうせ顔だけのろくでもない奴だろうと思っていたのに、 その先入観は彼の魅力を阻むことに失敗した。理性の壁は、大きな波前の薄い紙きれだった。 自分の意識は一瞬にして道徳も自制も沖へと置き去り、あいつのだとわかっていて、ただ彼以外に向かう先を知らなかった。


「あー俺放任主義なんで」
この前、自分の保護者としてついに学校に呼び出された金時は、すらり長い足をぶしつけに組んだまま堂々と宣言した。
問題になっている銀時の喧嘩話については、くつ下の先を直しながら、あそう、とだけ言う。 派手な髪色と堅気に見えない服装を嫌われてる上、行儀も悪い。 社会性がないのだ。彼は客にすら特別愛想がいいわけでは決してなかったし、 金時に言わせれば、この世の教師はみな敵なので余地も無い。
結局、この兄にしてこの弟ありと悟った先生は早々に説教を諦めた。
金時はその帰り際、手でも洗うような淡白さで、「高校って最悪」とつぶやいた。
そうかな。
「つうか、てめェ、俺の評価これ以上下げてどうすんだよ」
のん気にあくびする柄シャツの腰を、上靴で蹴る。
「痛ってェ、だから次からこういうことは、あいつに来てもらえよ」
うっそ、銀ちゃん、ソレ誰、騒いでいる先輩女子達を顎で振り返り、誰でもないよー、 場違いに目立つ金髪に戻す。ポケットの中でいじっている鍵がチャリチャリ鳴るその音一つだけで学校の廊下に浮く金時は、 短い制服スカートへ心底つまらなそうなくちびるをした。それをななめに見ながら、口をひらく。
「あいつって誰?」
「土方」
・・・・・・ああ。
その人が神楽の所に代打ちとして来た時に口説いたとか何とか、金時にしては珍しく、付き合いの続いている男。名前だけは知っていた。
「ふーん、どんな奴」
「別にィ。俺と同じ高校中退」
「・・・・」
「ま、頭と見てくれはいいからさ。きちんと背広さえ着とけば、こういうの、何か上手く丸めてくれんだろ。
あいつなら」
ガリガリ頭をかきながら鍵を出す隣で、丸めてどうすんだよ・・・その先に停まっている変な形のワゴンを眺めた。地面に垂れていたバッグを背負う。
あいつ、というその呼び方に銀時はいつでも何かあきれた。金時のその声色と、イントネーションと、 そこに含まれる関係性が会ったこともない彼の全てだった。それを聞く度、 こういう事へあっさり彼を巻き込んでしまう大人の馴染み深さや、暗にその勝手さを許されている、 倦怠期のように淡白で家族のように深い繋がりを彼らのあいだに垣間みた。
しかしこの男の何がよくて一緒に居るのか、銀時は彼をそこからして疑っていた。
(まァ、何だかんだで、俺の面倒は、みてくれるけど)
思っていると、車のドアが閉まる。
「待て待て待て、乗せろよ」
「やだね。今度あいつのプジョーで送ってもらえ」
さっさとエンジンをかけて走っていく全窓黒塗りのワゴンに一瞬だけ放心して、 この野郎!後ろからボコンと蹴ると、非難がましいクラクションがけたたましく響いた。
五ヶ月以上も、前の話だった。


だから昨日、学校近くに本当にプジョーが走ってくるのを見た時、自分の意識はすこしの風でふるえてしまうくらいの丸裸だったのだ。
だいたい、金時の妙なワゴンがいけない。てっきりそれが来るとばかり思っていた無防備な視界を、 その黒くつや光りする場違いな外車は堂々と横切り、前髪を吹きあがらせた。 帰ってきた部活の団体が何事かと顔を向けていくのと同じように、校門前で停まるそれをぽかんと目で追う。 それはそれほど、なじみの高校に綺麗すぎる異物だった。それに対する武装なんて、なんにも出来ていなかった。
「おい冗談だろ。銀髪って本当だったのか」
「・・・・土方?」
まぶたを閉じて、ひらく。
「いきなり呼び捨てにすんなよ」
207から革靴で降りて低く笑った土方は、予想した以上の男前だった。 体のラインは、車体にゆるり美しい光をたたえた後ろのクーペみたいな麗しさで在った。そして何よりも、その全身に漂う空気の強さが、静かに人を圧倒した。
いかにも、金時のタイプだった。
「銀時、ね・・・・まァ、金より品あっていんじゃねェ」
ドアを閉めてこちらを見る、すうと奥まで刺すような、灰色。
瞬間、一直線に全身を駆けぬけた何かに、銀時は上履きのまま出てきていた踵を強く踏んだ。 物理的ではない震撼で実際に震えたかもしれない肌は、学校離れした引力とそれに対する躊躇に飲み込まれそうだった。 いつもの部活動のかけ声が、頭上の遠くで回る。それは、落ちる、という危うさであっけにとられた感覚だった。
余韻の中に指先を浮かせたまま、(・・・あの野郎、何が、「別にィ」、だよ。) ぼんやり金時を、恨む。
「まさか、自分がこんな形で高校に来るとは思ってなかったな・・・」
土方は、一階廊下の掲示板にひどく懐かしそうな目の細め方をした。
土方は、 喧嘩とさぼりと家庭環境が悪いんじゃないかという懸念を聞かされ明らかに、何だそんなことか、みたいな顔をした。土方は、 金時に勝負殺気と言わしめた視線をして、最後にコラとドスのきいた声でちょっと机を下から、蹴った。
「話せばわかる奴でよかったな」
門を出るなり煙草をくわえた彼が、ひと事のように言う。 ふき出しそうになる口元を制服のすそ周りでおおい、黙って頷いた。
そうして、乗れよ、と、かつて世界一美しいクーペと賛辞された車のドアが自分に向かって、その空間をひらく。 いつもの校門を背景にした異世界のような奥行きに、鳥肌が立った。
「・・・んな簡単に入れて、いいの」
「何遠慮してんだよ」
喉奥で笑って、色気じみた指が取っ手からすべるように離れる。思わず、きゅとした両目で見た。
それが奴に触れ触れられるものであることは、知っている。 閉まったカーテンのようにその事実は視界の前で一膜張っている。わかってる。
だけど、彼の中身の強さと体の美がいっぺんに雪崩れ込んだ時点で境界線は混乱した。 瞳と黒髪に、一目で足は引き込まれた。その瞬間、100m走で地を蹴った後みたいに背後のぜんぶを忘れ去った。
あいつのでもいい。何でもいい。
欲しい。
そう認めてしまえば、普段通りの学校近くの空下で、 彼へと向かう光だけが目の前一杯に広がり、他の全ては後ろの方へと小さく、かすんだ。

初めて乗った左ハンドルの外車の中は、ぴたり外の日常から隔離されてるみたいだ。 赤信号を待つ車内で、シャと背中をずらす音がやけに浮いて響く。
「・・・融通利かねえのが嫌ってあいつが言ってたけど。外車」
「そうかもな。その上、面倒が多いよ」
「何でわざわざ乗んの」
「さァ・・・・・・だからじゃねえ」
土方は、折った人差し指の隙間をハンドルからすこしだけ開けたまま、フロントガラスに向かって答えた。
その黒い目元を、ぼうと眺めた。
髪先の雰囲気からまぶたの影から、彼が男に抱かれていることが確かによくわかる。 視界から遠く離れた脳内で、銀時は床に押しつけられるそれらを思った。 今日のためにきちんと着込まれた黒い背広を脱がす指を思った。 想像でしかない最中の彼とのギャップに、頭が熱に浮かされる。低いエンジン音に、すこし眩暈がした。 黙って車の匂いを感じていると、程なくして今度は土方から口を開いた。
「高校一年生か・・・・部活何やってんだ」
「・・・え、ごめん何て?」
「部活」
「あーあんま出てねェけど陸上。短距離ってタイムで出るだろ。数字って、ものすごく現実感ある壁だよ」
「へえ、いいよな。そうやって越えた時がはっきりとわかるんだろ」
土方が学校内でそうしたようにまた目を感慨深そうにして、くちびるの影を濃くさせる。
(・・・高校に感傷でもあんのかな)
横目で見つめて、背を埋めた。
「後退だってはっきりわかるよ」
「悲観的だな、お前」
「あまのじゃくなの」
「ああ・・・」
同じか、とたぶん金時を思い出しているんだろうその目は煙たそうで、奥深い。左手首にはめられた時計の錆色と同じだ。
考えていると、急ブレーキが踏まれた。同時に土方の腕が前につんのめりかけた自分の胸板を押さえる。思わず、血が脈打った。 ぶねェな、窓の外へ悪態をつきながら自分の制服のシャツ上で、する、と袖が音をたてて離れていく。 一度彼に触れてしまった空気は周りであいまいに溶けて、けれど肌の向こうでかすかに漂った。
「・・・あのさ」
その腕に触れ身を乗り出す。 す、とそこに目線を落とした土方は、片手でハンドルを握りつつ前にやり、こちらを見た。
「ん」
「土方ん家、行っていい」
「どうした」
「あいつが俺の鍵持って行ってて、ウチ入れねんだけど。今日」
本当だった。他にいくらでもあてはあるけど、事実は事実だった。この手が駄目ならそれでよかった。
土方の靴が、キッとブレーキを踏む。 それから、・・・あの野郎は、何で必ず人のモン持って消えるんだ、とコンビニの駐車場を大きく半周した。 勝負強いくせに、何でそういうとこ甘いのお前は、といつか金時が電話に喧嘩腰で吐いていた言葉を正に実感した。

黒を基調にした土方の部屋には、知らない酒のビンがいくつも並んでいた。
見覚えのあるオールドファッションなジャズのレコードはあいつの物で、 癖のように土方が指の中で触っている小さな2つのサイコロは、たぶんテーブルに積まれている麻雀牌と使うものだった。 ライトは点けても海底みたいに薄暗い。 どこまでも、夜に同化する。友人達の部屋のどれとも違う。ここには水面の光が見えない、肌寒い怖さが、ある。
「イーピン、七萬、リャンソー、中」
「何でわかんの」
積んだ牌の裏先をちょっと触れただけで中身の知れる土方は、別に慣れれば誰にだってできる、と面白くもなさそうにそれを転がし立ち上がった。
ローテーブルの上で牌の模様を見比べながら、消えた金髪を思い浮かべる。
「また北かな。何でちょっと休みあると寒いとこに失踪するわけ? あいつ」
「寂しくなると、行きたいんだろ」
「・・・土方、いるくせに」
「あいつの寂しさは孤独じゃなくて、今の自分とか生活からくる、それだから」
向こうの棚前から返ってくるその言い方に、・・・ああ土方もそうなんだ、と、わかった。 短く毛羽立った緑のマット上で乱雑に転がった点棒や牌を眺めた。
学歴だけじゃなくなってるとは言うけどさ、お前高校は絶対卒業しといた方がいいぜ、 金時の言葉がふっと頭をよぎる。何となく、後ろの制服の白い裾をなおした。戻ってきた土方はタバコの箱を開けながら、その様子を見て、また目じりの皺をすこしあげた。
近くなる彼の体に、ゆっくり手に持っていた牌を置く。
「高校、楽しい」
土方がななめ横に座って聞く。緩まるネクタイに視線をやった。
「・・・わかんねェけど、まァ、うん。そう思うよ」
答えると、彼は、ふうん、といった。それからもう一度、ふうん、といって下を向いて気だるげに笑った。
その伏したまぶたの切なさに、指の先を伸ばす。 体を前に出す為、ついた手の下でフローリングの溝を感じた。 暗い中で顔を近づけ、くちびるに目を落とす。土方の瞳がぼんやりそれを追い、すぐこちらに戻った。
「銀時」
警戒と同時に素早く、口付けた。 あがりかけた彼の手の気配に腕を強く掴んで、合わさっているそれを開き更に押し付ける。 舌で乾いた感触を湿らせた。力と体重で床に倒した腰の両横に、膝をつく。それでも、は、とだけいってやんわり体を押し戻す彼の力加減は侮辱に等しかった。 恋人の弟でも高校生でも、俺だって男になる。
「拒みたいなら、本気で抵抗してよ」
額で黒髪の散っている土方が、開きかけたくちびるでこちらを見上げる。 上から、襟がずれてあらわになった鎖骨を見下ろした。そうして実際に肌を目に映すと、不思議と強く意識する。 これは、あいつに抱かれる体だ。きっとこうして何十回だって、見てきたものだ。自分がまだ小学生でしか、なかった頃から、ずっと。 あいつのものを欲しがったことなんか、もう、なかったのに。
体勢の有利さに反した自分の表情は、土方の目を少しだけ開かせ、やがて薄めさせた。
「あのよ、こんなことされても、俺は、」
「・・・体だけ」
服を皺にしていた手をゆるめる。
「体以上を、求めたりなんかしねェから。だから、」
どれだけ惹かれたって、望みがないことはわかってる。嫉妬すらできない、彼らだけの年月の深さを知ってる。 でも、欲しい。
「させて。お願い」
切実な声で、年下らしくずるく甘えた。 さっきから感じ取れる彼の高校生への甘さをわかっていて、指を這わせた。しばらく肩を押し返していた土方は、こちらの白い制服を見ながら、徐々にその手から力を抜き下ろした。 襟周りに残っていたネクタイを引く。シャツ下から胸に手を忍ばせながら、 すぐそこの首筋に口を寄せる。舌の表面で肌をなぞると、すこし、反る。
「・・・ん、」
ぬけるような息を出した土方の唇の間に、肩を強く掴んで舌を絡めた。 まだ迷うように天井へ目をそらした土方は頭をななめに傾けて受け入れたまま、 敷いたらしい煙草の箱を肘で退けた。
静かな部屋の中で、服同士の音がよく響く。
土方は一瞬ぴくりと薄く開けたまぶたを震わせ、同時に奥まで入れたそれに喉をさらした。 それから、ァ、とあがる息で、こちらの動きにもどかしそうに浮いた足先を、床で擦った。 金時とする時も同じようにそうするんだろうかと頭の隅で考えても意味も仕方もないことを、思った。


窓の光はまだ弱くて、土方の寝ているベッドのあたりは部屋の薄い影になっている。 落ちている髪先を見ていると、一瞬だけそんな昨夜の時間がよみがえった。
耳元でつめる息の音。喉奥の声。顎の、角度。
ベルトの端をひっぱりながら、私物を集め歩く。
携帯に手を伸ばした麻雀テーブル下の影には、夜の色が、確かにただずみ残っていた。
「・・・・」
自分だって、夜は好きだ。暗い中で目立つ、コンビニの光や原付のライトが好きだ。不健康な明かりにどこか得意気だった。 だけど、彼らのような住人じゃない。
(・・・・わかってる)
それから、自ら昨夜のそれらを押しやるように、そこかしこから感じるあいつの匂いを素直に認めた。
そうしてしまうと、記憶の中の土方は途方もない蜃気楼になり、胸に開いたすき間の中でゆれた。 考えないようにしていた愛しさとの落差に、きつく目を閉じる。
だけど、仕方ない。
携帯を握った手の甲を、額にあてる。
この部屋の中では、自分はどうしても馴染みきれない健康さで在った。 それは制服とか、メールの内容とか、靴下のメーカーとか、インディースの曲とかそういうものだ。 無いものは、免許で、味のある腕時計で、麻雀の知識で、きっと、してきた苦労の量だった。 高卒資格を持たないことがどれだけのそれを生むのか知らないが、麻雀もホストも真っ当と言われるような仕事じゃない。 それは本物の夜の闇にただよう煙みたいで、そのやりがいも虚しさも、銀時には想像できなかった。 自分は、目の前に大学まで白線でひかれたような陽の下で明るく伸びる道があり、 まだ社会すら見てない、若さでいる。
あいつなら、初めて訪れたときから自然のように、ここへ溶け込んだに、決まってる。
じゃあ、ね。
ベッドに片手だけついて、細い黒髪をゆるい目に映す。
財布を拾って、ポケットにつっこんだ。それから、メモ張の、12日車検と書いてある文字と、手持ち無沙汰そうにぐるぐる意味もなくひかれたペンの後を見た。
革靴の隣に転がっていたバンズのスニーカーを履く。紐がからまっている。解いて、結ぶ。
「せわしねえなァ」
寝起きのかすれた声が背後で聞こえて、体が跳ねた。
土方が玄関の壁に寄りかかり、額の横をつけたまま傾いた前髪の下からこちらを見た。のろい手で腕を上下に撫でている。 その古く使い込まれた金属の鈍さのような気だるさは、金時によく、似ていた。
視線の間で空気が止まるような瞳に、一瞬言葉が出てこない。
「行くの」
「・・・うん」
「忘れもん、ねえ」
うん。彼の手首をみて、洒落たミロの絵を見て、くちびるを再び開くまで時間が要った。顔をあげる。 でも何を言えばいいのか全然わからなかった。眠っていただけでも、一晩の空きは長い。 謝罪すればいいのか、秘密を願えばいいのか、本気だったと、つぶやけばいいのか、 或いは、そんなことばかり考えている事自体が経験と年の差だった。
いつもの部活のバッグを肩にかついでしまうと、 土方は、ただ、眠そうにちょっとあげたくちびるの端で笑った。
「がんばれ、高校生」

部屋を出て朝の光を浴びると、あの大人の空気に満ちた場所が別世界になった。昨日は昨日へと遠くなった。 下の駐車場で、しんと寝静まっているような夜色のクーペを横切る。 真っ黒な車体に沿って浮かんでくる、 金時の言葉。外車の匂い。麻雀牌の感触。暗い部屋。
全部が、ボンネットの艶中でゆっくりと、混じっていく。
目を離して前を見ると、薄明るい中にながい道が伸びていた。早朝の犬の散歩をしている人の背中が朝日に染まっていた。 片足で地面を払うように擦り、その向こうを見すえる。 曲げた足裏の力で、地を蹴った。
電線の下を、最近さぼりと喧嘩ばかりで部活に迷惑をかけている自分にしては、感心ものの両足で、走った。 昨日の全てや色んな甘えを後ろへ振り切る。 風が前髪をふく。制服が膨らみ張りつく。はしっこで電車が通る。体中を血が巡る。
は、は、は、と息がはずんでいく。
彼らと違い自分の1日は今始まったばかりで、まだいくらでも力がある。これからどれだけでも時間がある。その先に、未来がある。
頭上で気が遠くなるくらいどこまでも続く、水色の空と、黒い線。
ずっと伸びたそれをながめて一瞬目を閉じると、
がんばれ、高校生
一人で、すこしだけ、泣きたくなった。




金土出会い偏→「夜明けは要らない」。その後オマケはハイザラに

2007