男は丸い瞳にミルクティーの髪の毛を持っていた。コーヒー屋の中で自分の目の前に腰掛け、頭のてっぺんが照明のライトで光っていた。垂らした両足をぷらぷらとさせて、 たくさん言いたいことがあるような、そのどれもが重要ではないような、そんな淡白な顔をしていた。 店内の「エミリー・エミリー」なんか、耳から消えた。それくらい独特の低い声で、彼は喋った。
「俺が何故今アンタの目の前にいるか、それをアンタは考えている。正しいことですぜ。俺が誰かなんてさしたる問題じゃない。よくわかってる。 いいじゃねーですかィ、話は早い方が俺も好きですぜ。何、たいした用じゃねェんです。カマンベールのタルト頼んでもいいですかィ?」
答える前に彼は、そばを通った店員に注文してしまった。アンデルセン童話集の表紙みたいに分厚いメニューを開いて、細く曲がった指で写真をさした。 それはまるで、一枚の絵画に見えた。ルノワールあたりが好んで描きそうな体の傾き方だ。
いつものごとく、自分はただ時間を潰すためにここで本を読んでいただけだった。そこに突如として現実感のないそんな男が現れ、次に例えばこんなことを言う。
「ところで、今日死ぬことをアンタは知ってますかィ。ああ、知らなかった。まあ、当然といえば当然ですけどね。 勘はあったでしょう? じゃなきゃ俺がここに来るはずがない。店を出たら、アンタは真っ直ぐ右に曲がるんです。それを、左に行こうかと迷ってる。いけませんぜ。 そっちの本屋にはアンタが欲しい新作置いてないし。・・・それ、何ですかィ?」
きれいな伏し目をして、メニューの羅列をさして面白くもなさそうに見つめて話していた男は、ふと上半身を乗り出して、こちらをのぞきこんだ。 さらりと甘くて茶色い髪の毛が影になってテーブルクロスに落ちた。 持っていたそれを、すこし、胸前で立ててみせる。
「ミヒャエル・エンデ。『はてしない物語』」
男は、ひとつひとつゆっくり発音して文字を読んだ。ミヒヤエル、とちょっと聞こえた。
「本は好きですかィ? ああそう。大丈夫、次の21ページまでだけは読める。保証しやす。 けど、そんなものに目を奪われているから、こんな所で人生のタイミングを間違える。時計を見てごらんなせェ。ほら、もう走って出ないと間に合わない」
袖をずらしてそこに落としていた目を、まぶたの下から、ゆっくり男に向けた。
もうこちらを見もしていない男は、自分がそうするであろうことを疑っていないようだった。だけど、 タルトの欠片が口のはしっこにくっついている。ぽろぽろと唇の間からこぼれおちている。・・・まったく、子供みたいで、バカみたいだ。 この自分が、呆れ混じりに頭で思った。確かに体は勝手に急ごうとしたのだろうが、気持ちの方が強かった。 今の自分にとって最も大切であることは遅れそうな待ち合わせの指定時間なんかよりも、ただそれだけのことだった。 遠い瞳でそれを眺めながら、指先を伸ばす。彼の肌は感触というものを持っていた。ぬらりと表面が光っているそれを親指でぬぐって、自分の口に含む。 別に、ただ、あま苦いだけだった。
男はふといった感じで目をあげ、それを追っていた。そして、・・・・はあ、と深いため息がつかれる。
「迷惑なお人だ。よく煙たがられるんじゃないですかィ。だって運命の約束すら、ろくに守れもしやしない。時間はただの観念だ。 人間が形にしてみただけにすぎやせん。けれど、戻すことも歪めることも許されない絶対的な宇宙の法則だ。 そればかりは、俺にだってどうすることもできないんですぜ。ああ、時間が過ぎた。暴走バイクは走り過ぎてしまったろうな。どうしよう」
頬杖をついて、片腕をテーブルに乗せた男はななめ横をぼんやりと見ていた。遠近感としてコーヒー屋の隅の青い短冊が彼の後ろで揺れていた。 七夕だった。そして、明日というその日を、自分は何故だか前から知ってたみたいに思い出した。脳ではない精神の奥の世界でヒラリと光った。
「総悟」
名前のことなどどうでもよい。ただ、唇の動きだけに負かされた。それは、三毛猫をミケと呼ぶのと同じなだけだった。
男がチラリと視線をあげる。
「あのねえ、俺は今、考え事をしてたんですけどね。 俺がここにやって来てしまった、めぐり合わせの矛盾とか。それは、宇宙に終わりがあるのかないのか、ニワトリか卵か、 それと同じようなことなのかどうか、そう、そういうものについて。何ですかィ。土方さん」
男は気だるげに自分を見返した。その瞬間は、デジャヴのようなものが頭の一部を支配した。以前にもこの男と会話をしたことがあるような感覚が遠い宙に浮いていた。 きっと、事実ではなかった。デジャヴというのは、そういうものだ。腕時計の日付に視線を落として、彼へとあげた。
「明日の7月8日になら死んでやる。くれてやるぜ、お前に。・・・・まあ、色々と、もしも、の話だが」
男はじっとその丸い瞳でこちらを見据えた。
結構、長い間、そうしていた。
やがてそれが伏せられ、トントンとしばらくテーブルを指で叩く。単なる布の音だった。それから、まぶたが閉じ、唇のはしが、すこし、笑んだ。
「・・・簡単に言いやがる。そういう問題じゃねえってのに。でも、日付というのは不思議だな。ただの時間の区切りのくせに。 この俺なんかが意味を持ってる。ふん、言葉だけは受け取っときやすぜ」
テーブルに手をつき、カタリ、と彼の体が椅子から立ち上がる。
それが来た時と同じように自然と店から出て行ってしまうと、店内の音がさわさわと戻ってきた。
隣で、カップが皿にぶつかる音がした。
人の会話が浮いていた。
「いとしのセシリア」が聴こえ始めた。
もう終盤だった。
開いていた本に目を戻した。
21ページが過ぎた。