「土方?」
脳が、水の中で浮きあがる感じがした。高校入学式の日に、新しい環境にざわざわとしている廊下で坂田は彼に気がついた。 彼の歩いた道には女の色ある空気と男の否定的な視線が残る。そのどれをも淡白な背中で受け流している彼は、たぶんただ単に自分の教室を探していた。 惹く目元、整った顔立ち、全体的にぶぜんとしている。
忘れるものか、土方だ。
あたりの声は、一瞬で鼓膜から消え去った。明るい窓の光が射さっている背を目で追う。
「おいコラ、土方。土方十四郎」
一番端のF組の前で、踏んだ上履きの折り目をなおしながら呼び止めた。
「・・・誰だよ」
土方は、完全に自分を忘れ去ったような眉の下から、 けげんそうにこちらをみた。構わず片手をポケットに突っ込んだまま、彼の方へと歩いていく。目の前に立つと、警戒した瞳と合った。 その黒い前髪をぐ、と片手でおしあげる。
「に、すんだ」
無遠慮な行為に肘をつっぱってひく腕をおさえ、指で左目を閉じさせた。ああ。まぶたに走った、傷。
坂田は、そのことをよく覚えている。小学5年の頃だった。クラス前のホールで野球をして遊んでいた時、 通りかかった男の子に偶然手がぶつかった。タイミングと角度がとても悪くて、爪が食い込んだ。 すぐに彼の左目の上からだらり血が流れ出てきたものだから、それはもう、ちょっとした事件になった。 唖然とする自分や騒いでいる友達と先生に囲まれ、当の本人は表情一つ変えず非常に淡々としていた。 クラス会議や徹底的な謝罪などと色々あったが、土方は終始どうでもよさそうなスタンスを変えなかった。 妙に気になる存在になってしまった。姿を見れば、目で追いかけた。話しかけようとして、何となくできずにいた。 それからすぐの4月になんともあっさり転校していってしまった、アレが土方だ。
「ああごめん、ゴミついてたから」
「どこに!」
はらわられる前に、ぱ、と離した両手を肩の横で小さくばんざいさせる。 なんだ、短気だな。そうなると今から思えば、あの動じなさは彼なりの思いやりだったんだろうか。なんて殊勝な。
「なァ俺、坂田だけど。坂田銀時? 本当に覚えてねえのお前」
「知らねえよ、つうか、知ってたくねェ」
嫌なものでもみるような目つきの土方を前に、まあ自分のあやしくあがっていた口の角は自覚していた。 今の彼からは、あの幼さ特有の綺麗さがなくなってしまったかわりに、男の色気が匂った。
背を向けて行ってしまう後姿を、頭から腰をたどり足元まで、じっくりみつめる。上履きを履きながら、彼の体に残っている痕を思い浮かべた。 もう肌色になっていたけれど、確かにくっきりと残った線。
(俺が、つけた。)
人差し指の爪に目を落とす。背骨を駆けぬける寒気に似たそれに笑った。