お前まだ教室?

ちょうど寒さで早足になって1階まで階段を降りてきたところで、坂田からメールがきた。

『もう出た』
『財布忘れた、とってきて。机ん中』
『もう出た』
『俺の机は後ろから2番目です。いちばん窓側です』
「お前、俺を何だと思ってんだよ」
「素敵なお友達だと思ってる」

げた箱から靴を落として、足をつっこむ。
3階まで往復させられた文句は、だらしなくはみ出している彼のシャツを見ると言う気も失せたので黙った。
下の板は誰かが踏み抜いたすき間のところだけ、もういつからなのか綺麗な肌色になっている。 くつ下が釘にひっかかると毎回同じ文句をいう坂田は、後ろポケットにどうせ小銭しか入っていない財布をねじこみ、 肩をすくめるようにしていた。玄関口は、いつでもひんやり寒いのである。
『・・・先生、職員室までお越し下さい。繰り返します、』
つま先で床を叩いて靴を履きながら、ひと気のない辺りに響く教師の呼び出し放送を聞いた。それは毎年冬になるとよくかかるもので、 向こうでは誰かが進路のことについて、少々真剣に話をしている。 思わずしんと耳をすまし、もう残り少ない月をぼんやり数える。 寒さが一段と厳しくなってそれが和らぐ時になるまで着ているはずの、制服の裾に目を落とした。
履きかえたばかりの靴の中がさむい。
「お前の鞄、すげえ軽いんだけど」
同じ3年でも坂田はといえば、ただ待っていただけの体で歩いてきて、放っていた土方のそれを当たり前みたいにして拾っている。
「・・・お前みたいに、余計なもんが入ってねえからだよ」
ゆっくり受け取ると、指先がすこし、あたる。
土方は首をかきつつ、坂田をみた。
そんないつものことがいつものことになっている事実を互いに意識していることに、この頃、気づいていた。
ついでに、あちこち骨の折れた傘やジャージがつっこまれていた机の中を思い出し、両手をズボンで拭いて、 あとすこしで、いつものでなくなる放課後の校舎を、いつものように、出る。




外の風は、素肌にじんと冷たかった。薄い色をした空に太陽の光が遠くて、空気が澄んでいるみたいにしていた。 この頃になるとついよく見上げてしまう上へ、吐いた息が色で見える。昇っていく途中で消えるそれを目で追った。 この前まで夏だと思っていたのに、知らない間に季節が巡っているな、と思う。
「家の近くのレンタル屋さァ、俺がレジいくといっつも同じ店員がまわってくんだよ。夜とか4人くらいいんのに、もういっつもおんなじ」
「・・・・」
「だって、こないだもダイ・ハード3借りてさー、次の日、あ何だっけ、フィフス・エレメント! 借りたときもその人でさー、 お前ブルース・ウィリス大好きだろとか思ってるよー絶対。たまたまだよ、たまたま」
どうでもいい文句の言い終わった坂田はマフラーを口元まであげながら、 ああーさーむーいー、と上半身をすこしかがめて体を小さくした。 無視してさっき買ったたこ焼きに、爪楊枝をてっぺんからさす。 順に食べることを決めた本人である坂田が横からくっついてそれに手を出してくるので、鞄を脇にはさんだまま肘で押しやる。 骨先にあたった彼の胸板の感触が、かたくて、口内の熱さに集中した。
自転車と一緒に犬が来ているのを見て、二人してガードレールの方へのけぞらせた背中をつける。
車の爆音がすぐ後ろで通り過ぎ、舞った前髪が目にかかる。
「・・・今の見た?」
「ざっふ」
「ちげえよ、女、全身ピンク。どこ見てんだよ」
「いふ」
「つうかあれ雑種っていうより柴犬・・・あれ、柴犬って雑種? 三毛猫と一緒?」
肩同士があたっている坂田はそうして一人で考えこむようにして黙るので、心置きなくたこを噛んだ。
そうしながら、よく一人でそれだけ話を広げていけるものだと、感心している。
一年の頃食堂に座っていた隣で鼻歌を歌っていたかと思うと、あれこの歌何だっけ、いきなり初対面で聞かれて、妙な奴と思っていた頃が懐かしい。
もう、ぼんやりとしか浮かんでこない景色に重なって、男子生徒が部活のバッグを背負って通り過ぎていく。同時に、 体育館の床の線とたれた緑のネットがゆらと淡い煙のように頭をよぎった。足を踏んで擦る音がまるで本物のようにして今でもそこにあるかのように聞こえてくる。 この時間きっと一年二年は懸命に励んでいるんだろう、思いながらその他人を見送った。
寒い中で、パックの底が手の平にあたたかい。食べ終わって、指のソースをくちびるで拭く。寄りかかっていたレールから離れる。
背後の道路の音の間から流れてくる静かな気配に気づいて、坂田を見た。
いつから見ていたのか、見慣れた両目と合う。
「・・・土方、あー、のさ、・・・・・・・・あー・・・」
坂田は、ゆるく口を開きかけて、何かやめた。顔が下に落ち、組んでいた足が地面につく。そのまま、がりがり頭をかきながら先に立って横断歩道を渡っていく。
また肩にすぼめている首が網目の粗いマフラーに完全に埋まっていて銀髪がその上で遊んでいる。 いつか見た気がした冬の光景とひどくよく似ているそれを、たしかに最後の今年、今、自分は同じように見ている。



「じゃ、俺が答えな」
「俺が線か」
「で選ぶの俺」
(坂田が意味もなくぽきぱき、と両指の骨をならしている。単なるあみだくじである)

滑り台の上で女の子が話しこんでいる公園のベンチに、1つ落としてしまったら1つだけ残ったたこ焼きをおく。 こんなことでしっかり気合をいれた坂田が、当たり、外れ、と拾ってきた枝で地面にかく。それから線をひく。2本ひく。枝を受けとる。 ひきついで、でたらめに横の線をひく。 坂田は目をつむって散々ああだこうだと朝の占いまでひっぱりだして迷ったすえ、左を選ぶ。さーかーたーといいながら名前までちゃんと書いている。 それから、二人して答えのほうに並んで立って、人差し指を宙で動かしながら確認する。坂田が奇声をあげて、ベンチへ走る。たこ焼きをかみしめる。 犬の鳴き声が、している。
土方はその背中の向こうに、赤と紫で染まった雲を、みた。
「・・・・・」
あっというまに日が落ちるつかのまの夕方はよく冷え込んでいて、鼻の頭が、すこし痛い。
一年の終わりは12月と昔から決まっていて、けれど何かが始まるのはいつでも春だ。 遠いようで気がつけばきているそれはまだまだ気配すら感じさせないが、確かに、そこにあった。
すこしだけ目を細め、冷たい風が髪をゆらす。
目のはしに、地面に置いていた鞄を2つ持って歩いてくる坂田が見える。右腕についた土を払っていた。
持たせておいて、砂の匂いのする公園の出口へ向かう。低く黄色い柵がふたつ並んでいる分かれ道が、見える。


「・・・あ、土方」

なんだよ。言いつつ歩く。名前を呼んでおいて続きがないので、立ち止まって振り返った。 坂田は口を開け、何も言わずにまたかりかりと頭をかき、視線をさまよわせたが、やがて諦めたように笑った。 そのまま、はあーとぶつかってくるので、よろけながら鞄を片手でとる。頬に触れるマフラーの感触がざらざらしている。 寒い、とまだ言っている。肩口に当たるあごの動きでわかる。
その近さに、ずっとしていた何かの予感が増して、喉がつまった。
思わず黙ると、坂田も、黙る。
自分の体や頭の中の音だけが、強く聞こえている。互いに空気だけを頼りに相手をみている。
息のできない苦しさに肩を押して離そうとして、その腕をつかまれた。坂田の顔があがるのと同時に胸をしめるような気配が近づく。
ゆっくりと、くちびるが触れる。
真近でまぶたの下からこちらをみる、真面目な目と合う。
「坂田」
とがめるような驚いているだけのような声が出た。
「うん」
うんといって、手の平が後頭部と首の間を押さえ、開いたくちびるが深く自分のそれを埋めた。
友達だろ。とかなんとか、口に出すのも恥ずかしいその言葉はだから出ないまま終わった。目を閉じる寸前まぶたの隙間から見えた近い髪の毛が残った。 肘先の胸板、触れる肩同士、 売り言葉に買い言葉ではじまるケンカと、どこまでもくだらない話の年月が浮かんで沈む。
くちびるがすこし離れて、目をあげる。 坂田が手を耳横に移動させて、言う。
「最近さ」
「・・・何」
「体、近かったよね」
確かに夏までは。さして気にせず自然のまま離れたりしていたのに、この最後の、季節は。
まあ寒いしな。何となく答えると、坂田はまばたきをしてから崩れるみたいに肩に額を乗せ、「あー好き」と言った。
2年半とすこし友達をしてきて、あとほんの何ヶ月かで終わるところでついに言われてしまったと思う。 これが最後の冬であることを坂田も考えていたのかとしみじみした。


じゃあ。いつものように顔を右に向けて、いつものようにわかれる。 離れて帰ってゆく坂田の、後ろポケットから例の財布の先がすこし見えていた。教師やクラスメイトとすれ違って登り直した階段を思い出した。
いつの間にか陽が沈んでいる周りの気温は、より一層低い。
いつもの道を一人になって歩いた。
息が吸い込まれていく夜の先に、冬を迎えて心なしか夏より白くみえた校舎が漂う。ぽつんと光るその夜空を目で追い、「・・・・」、黙って見上げた。
そこはもうすぐ足を踏み入れる必要のない場所になる。
すでに放課後体育館で汗を流すこともなくなっていて、 肌色の板に坂田がくつ下をひっかけることも階段でメールがくることも汚い机の中を見ることも上履きの音を聞くこともなくなる。
やがて、春がくれば、高校生でいることがなくなる。 いつものように教室で話すことがなくなる。今まで当たり前のように続けてきたことが、終わる。
感慨深いわけでも感傷的になっているわけでもない。 本当のことをいうとまだ実感がない。それは冬が終わった春の先でぼんやり漂っている未来なだけだ。
マフラーを巻いて鼻がじんとして人の体温があたたかく、だって寒い季節はこんなにも確かにここにある。
雪の降りそうな空気が制服の周りに広がっている。一人、静かな音を聞く。
卒業か。
なんともしれずつぶやいた言葉はどこへいくこともなく、冬の温度に包まれて、そのまま消えた。