2013.4.10.













窓の景色は、午後5時過ぎの夕方へと向かっていた。うすむらさきの、空をしていた。ゆるい車輪の揺れが、ポールにあずけている頭を通してカタコト伝わってきた。 誰かが新聞をめくる音が右から聞こえた。朝の夢の続きをすこし、見た。
(携帯。カッター。押しつけがましい手紙と・・・・・・後何だっけ)
・・・あ・・・・・そうだ、刃が刺さった、肌が・・・・・・・痛い。
ゆらゆらしている意識のはざまで、トン、と誰かの部活のバッグが肩に当たる。 おい、正にそこだ。いつの間にか隣にいる銀髪に、「いてえよ」、と言うと、「お前が寄ってんだよ」、同じように眠たそうな声が返ってきた。 そのくせ、坂田がちょっとだけ身をよじってつり革にひっかけなおす指が、かすかに開いた視界のはしではだ色ににじむ。 のん気なベストが、体温で柔らかそう。
「なあ俺のスラダンまだ? つかちゃんと読んだ?」
「・・・・・まだロン毛がバスケ部入ったとこ」
「もうやだお前信じらんない。何ヶ月貸してると思ってんの」
「五ヶ月」
「そりゃあ三井もバスケ始めるよ」
あきれた坂田が、肩から床にすべり落としたバッグを開いた両足ではさむ。 本格的に自分の横を陣取った彼をけげんに思って目線をすべらせたら、いつもの連れたちがいない。 まだ夢の色彩をあやふやにひきずっている車両でたやすく自分に話しかける彼の声は、まどろみに雫みたいな光を落とす。 ・・・イヤな夢の余韻がのこる両目を、親指でなでた。
「・・・何で俺見つけたらおすすめ押しつけんだよお前は・・・店員か・・・」
「だってヅラも高杉も漫画読まねえもん」
「お前は俺の漫画読むのかよ」
「やだよヤンキーものばっか」
半分落ちている視界のあいだで、坂田はつまらなそうなあくびをかみ殺して短いまばたきをしている。
退屈ならいつもみたいに桂たちと帰れよ・・・思いながら、また、ゆるりまぶたが閉じた。
(・・・・はあ眠い。)
この頃眠れていない眼球はぱりぱりと乾いた紙みたい。
遠い耳鳴りみたいに寄せては返す昨夜の着信音。寝がえりで痛む肩の傷。
かくんと坂田の方へ傾くと、しばらくしてから、やけにひかえめに手の平で押し返される頭がポールへ戻った。 髪の毛に入った坂田の指の感触は3秒ほどそうして触れながら、やがて、ゴンと柱へぶつけてきたので、目を閉じたまま笑う。痛てえ。
「お前、サッカーゴールにも頭ぶつけてた。最近何ぼーっとしてんの」
「・・・何だ、いつ見たんだよ」
「数学暇だったから。変だよ近頃の土方。寝不足気味だし。何かあった」
「・・・・」
・・・・別に。聞かれて思い出すことといったら、なまぬるい憂うつさだ。それをお前の前で形になんて決してしない。
坂田はいとも自然に聞きましたという態度で、すんと鼻をぬぐっている。そこでゆれる彼の空気に、ついゆるんだ瞳を腕に隠す。
だって坂田がそこに立つと、あわく気だるげな光があたりの全てを吹いていく。 自分はいつもみたいにただ睨むことで、その明かるさをまぶたのすき間にとじこめる。
「あ、動かないで」
ふいに意識の向こうから、こちらに伸びた坂田の手が、自分の腕から何かを取った。
窓からのやわらかい光に小さなちりたちが舞っていた。
そんなぼうとした時間にも、携帯はポケットの中で震えていた。
無視をしてその振動を坂田から隠れている方の右手で押さえていると、
「・・・なあお前」
坂田が指についたらしい血をすり合わせながら、ゆっくりくちびるを開く。何だ、と返さず寝たフリを続けたら、無言が浮かんで、駅に着いた。
「いや、じゃまた明日」
いつもの駅でおりる顔が、ぷしゅと開いたドアのすき間でそう残す。
動き出した電車の窓が、バッグをかつぎ直している銀髪に、追いついて、過ぎた。
彼の姿がスピードの線になる景色をつり革に上げた腕の間から見て、坂田がいた左側の頭をすこし触る。
その手で携帯を開いてみて、土方は、ふう、とうすいため息をついた。


おうー、はよー、という声が空のあわい水色にぬけてく。 学校の玄関のくっきりした影に入ると、光の落差でまぶたの中がちかちかした。 温度の下がったげた箱の靴を掴んだ指の関節に、かさくしゃ、と紙きれの音に当たる。
「・・・・・」
のぞいてみると、男の裸の切り抜きばかりに自分の上履きが埋もれている。しばし見つめてから、(アっホらしい)、まとめて丸め、
「土方ー」
ぐしゃっとつっこみ直す。
同時に、坂田が投げたペットボトルが背中に当たり、黒い長髪の連れが興味なさそうに振り返ってくる光景に、 「あ先行ってて」と友人らしい声をかけた坂田は、こちらに悪役みたいな口のはしを上げた。・・・何で俺にはその顔なんだ。 おまえはいつも意地わるい、その銀色加減が、両目にまぶしい。
「痛てえよ」
「お前が振り向かないんだよ。投げるよって、言おうとしたのに」
「投げる前に言えば意味あるよ」
上履きを持ってすぐさまげた箱から離れた。冗談の雰囲気から、後ろで靴を脱いでいる坂田の急に黙った視線がどこにあるのかを振り返ろうとして、やめた。
(ていうか、何でざくろ&ローズマリー・・・女子かこいつ)
手の中のペットボトルをまわしながら、掲示板の画鋲に紙のはしだけ残っているどうでもいい光景が横目に残って、 ゆっくり追いかけてくる坂田の足音は、朝から抜けた炭酸のよう。かかとに指を入れ、 よろけて進行方向の曲がった肩に、坂田の手が「あぶねお前」とかんたんに触れてくる。 その髪からよく似た香りのする自分の髪同士が、・・・近くて、ときどき、小動物の気持ちになる。
「俺のローズマリー返して。あとスラダン」
「まだ読めてねえ」
「今度横で見張っててやるよ。それか朗読。二択」
「気長に待つの三択目」
「いいけど。お前、こういうの興味あんの」
(・・・無神経。)
坂田の手の中にあるさっきの紙をななめ下に一瞬だけ見てから、「あるわけねえだろ」、と、窓へ目線を移した。 瞬間、いつから見ていたのか中庭の男子生徒と目が合った。土方は、風も吹かない外から刺すそれを、前髪の影から見返した。
(・・・・相変わらず、息のしづらい、視線をするやつ。)
サッカー部で中心になったイケメンの、仮面。その内側のことは、俺にもわかる。
そうして彼から鞄をかつぎ直すついでにまつ毛を伏せてそらすのは、隣の気配があまりにも坂田のものであるからだ。 「ふうん」と言った坂田は、重たいまぶたをしながらすこし窓に目をやった。 くちびるを閉じ表情をうかがうと、彼は鞄からジャージを引っ張り出すことに苦労していた。 「え何?」、と平和な眉を上げてくる。・・・フン、「直で入れてんなよ」と大股で追い越し角で曲がる。

いつもよりみんな少しうかれている教室は、もうすぐ週末のにおいだ。 「土方ラーメン行く?」「行かない」「お前が来ないと女子も来ないんだよ・・・」というクラスメイトの悲しい声を後ろに、教科書を出す手がぴくり止まる。
世界史の表紙の上で、白濁によごれた自分の映る写真の束を、一枚一枚、裏返しに折りながら、
(・・・・こんな脅迫じみたことしなくても別に・・・、)
土方は落としたまぶたで淡々と思う。
2時間目の窓からは、グランドの銀髪が見えた。
長髪を後ろから蹴って、だるそうに歩きながら、ジャージに両手をつっこんでいた。 その更に後ろから片目の彼が坂田を蹴って、受け身のとれなかった坂田が何か怒鳴っている。
(・・・・・仲良いな・・・)
・・・・にしても
(バカだよなァ・・・・)
教師の声が間延びするねぼけた空気を袖でちょっとこすりながら、落ちてくる髪ごと頬杖をつく。 太ももあたりで相変わらず鳴っている携帯が、もや、とつめたい霧を胸の内で渦まかせている。
それでも、さっきの坂田の感触が制服のしわになって残るから、いつか観た映画のせつないシーンなんか遠い銀髪に重なった。
(・・・・・バカは俺か。)
外の合同体育のかけ声。眠気につまってる数学の教室。いつもの学校。そういうもの。・・・そういうものが・・・・
・・・前髪と一緒に腕へ頭を押しつける。
(はァ・・・)
・・・・・俺は、ただ。
制服でこすれる傷にも、無遠慮な着信にも、全てにただ。
あいつが気づいてくれなければ、それでいい。
こんな風に坂田を見ていることにも、見れるということにも、ただ、気づかないでいて、今のまま。 だって、たまたま電車で帰って、漫画を借りて、何でもない手が自分に触れる。 望んでいるのは、本当にたった、それだけだ。
(・・・しかし、余りに長いな)
携帯の振動がやんだと同時に画面を開くと登校した頃の時間に、メールが来ていた。 呼び出しの文面にイヤな眉を寄せた横目の隅で、外の銀髪が上を向いた。静かな瞳がこちらを見ている。
「・・・・」
思わず携帯を引き出しに押し込み体を起こすと、坂田の顔は長髪の頭で隠れその首をホールドしにかかった。 それを片目の彼が鼻で笑って通り過ぎていく様子は、いつも彼らだけの古くて懐かしい匂いがした。
・・・そういえば。
その内の一人である坂田と、なぜいつから自分が話すようになったのか、それだけが土方は思い出せない。


「え、土方いないの」
教室のドアに手をかけ、頭だけで中をのぞきこんだまま、坂田は踏んだ上履きをとんとんと叩いた。
昼休み中のクラスの生徒たちはみんな遠慮がちに緊張して、後ろのドアから出入りする。 この学校で自分に退けと言えるのは、桂か高杉か、確かに見当たらない土方だけだ。
(タバコでも吸いに行ったか。悪いヤツ)
なんだ・・・ジャンプ読ませてやろう、という口実で、最近、聞きたいことがあったのに。 かかとをなおし、窓際の土方の机をちらり見た。 ・・・「ちょいごめん」と生徒の背中を横へ押し、その席に手をつく。中をのぞいてみると、いつか自分が無理矢理貸した漫画が入っている。 ぱらぱらと親指から跳ねてくページに目線を落とし、閉じた。本人は・・・ 北校舎かな、と予想をつけて歩く廊下から見えるでこぼこのビルは、ぶあつい雲の手前で何かの駒のよう。
「銀ちゃんーうまい棒あげようか」と、しゃがんでたむろしている女子たちに、「パンツ見えてんぞ」と、淡泊に返して過ぎる。 笑った明るい茶髪がピアスを揺らして後ろをついてきた。 「こんなひと気のないとこ来ちゃって。空き教室探してるんでしょ」という彼女のくちびるはまあ好みだ。
「まあね」
「する?」
「しませんー」
答えながら、しんみりした廊下を歩くこちらの腕にその子の胸が押しあてられる。 その谷間に集まったシャツの皺を見下ろしたら、つい速度がゆるまった。 「ったく・・・」と、頭に手を入れる。
そのまま引っ張られるようにしてもつれこんだ柔らかい太ももが果物みたい。なぞる指先に素直な反応。めくれるスカートの合間の肌ざわり。 耳を噛んだまんま、慣れた手つきだけでそれを確かめる。
(まったく、俺も不良だな。高杉ほどじゃねえけどさ)
別次元の頭で考えていると、
『・・・ッン、ぅ』
ふいに、誰かの声が彼女のそれに重なった。
うめくようでいてどこか泣きそうなそれは男みたいに低い。 ひそかに影の落ちた教室で、甘ったるい香水の匂いに埋めていた顔を上げる。
「・・・今、なんか聞こえた?」
何がー、という彼女の口をふさいで、少しだけ体を起こし耳をすませた。 外から駆け上がってくる生徒たちの声と、しんとした教室の空気だけでほこりの舞う時間がたつ。それ以上何も音はしない。 けれど確かに耳に残ったそれがやけに気になって、なんだか最後まで出来ず集中がそがれた。
「あ、土方」
ほどけたネクタイを首から回していたら、ちょうど探していたその姿が廊下を横切っていくところで、坂田は当初の目的を思い出した。 呼ばれた土方が、ちょっと顔を戻す。「ちょー待ってー」、と 上履きに足をつっこみ、ドアのすき間からそっちへと出た。ちょ銀ちゃんひどい、と言っている女が背後でニーハイをなおしている。
「お前何してたのーこんなとこで」
「タバコに決まってんだろ。・・・お前こそ何やってんだよ」
女子生徒がいる背後の教室に目を向けた土方が、まぶたを落として、深いまつ毛の影を作った。
「お前がいねーから探してたんだろ。そしたら成り行きで」
「どんな成り行きだ」
実際にタバコの匂いを確認して近づいたら、ふと、くしゃり誰かに手でひっつかまれたような跡だなと思った左の黒髪へ土方が自然な動きで指を入れた。 その横側を、騒がしい男子生徒の集団が通り過ぎていく。こいつら、文化祭とかで目立っては女子人気を奪ってくからなんか嫌い。 横目で見送ると、右端の生徒だけが不自然なほど自分たちに目もくれず、ただ土方の肩にドンとぶつかっていった。
「コラおい」
踏みだしかけた足を、
「いいよ」
と片手で制した土方は、静かな伏し目のまま、「どうせジャンプだろお前」と話題を変えた。 坂田はネクタイを通しながら、ああうん、とそのセーターからはみ出したシャツの一番上と一番下に目をやった。


視界に、ばたり、としずくが落ちる。
冷たさが頭から全身を伝って、水滴の流れが下へ向かう。 直前、とっさにつむったまぶたの中で、目の前にアメーバみたく広がった水のかたちが残った。
「え、何アレだいじょぶ?」
女子生徒たちの声が3mななめ先で通り過ぎていくのを聞きながら、ぐっしょり束になった前髪から彼を見るとその視線はすぐにふざけている仲間内にまぎれた。 頭からホースの水がかかったびしょ濡れの制服がはりつき、のりでくっついてるような感触がする。髪からたれる水の玉が地面に作る染みはバカみたいに丸い。 バカみたいだと、そう思うのに、ぽたぽたといくつも重なっていびつになる。・・・しばらく見つめて、ぬるい額をぬぐった。
(・・・・・・・それより、昼休みから、口ん中)
土方は水飲み場の蛇口をひねり、くちびるの裏をなぞった。何度かそうして、引いた独特の苦い唾を上下に振る。
昼に廊下を通った坂田の声と、のびやかに響いた女の笑い声。
あの時、必死に閉じた口が痛い。指をやると、下くちびるの皮が血でかたまってる。
そうしてくっついているシャツを肌からはがしかけ、ふと、そのボタンが一つずつずれていることに、今、気づいた。
「おっ土方ァー俺の美味しんぼさあ、ちょヅラ押さないで」
急に上の窓から坂田が顔をのぞかせ、とっさにセーターの裾をぎゅっと引っ張る。
もう片手で、伸びたそれからはみ出た襟を押さえ見上げた。
心臓の音がどくどくと冷たく熱い。耳のそばまで血の流れが聞こえた。
「あれお前、なんでずぶ濡れ? ヅラやめてって」
「お、前の美味しんぼがな、に、いや、あと、後で聞く」
「え?」
桂たちの後ろ姿にはさまれて後ろ肘をつきこちらを振り返っている坂田を残し、保健室に窓から入った。
ベッドを陣取っている昼休みに坂田と一緒にいた女子が、 別段驚きもせず「貸したげよっか?」と手に持っていたドライヤーを指した拍子にそのスカートが飴のつつみ紙みたいにめくれた。 ・・・そこから下着が見えたことより、さっきの自分のことを見られたな、という確信で先に目をそらす。
「銀ちゃんに言わないの? 何とかしてくれるよ絶対」
「何が」
自分が脱いだセーターを広げた彼女は妙にゆっくり丸見えの太ももの影を組みかえ、 こちらの目線を追ってから、はあ、とやる気なくドライヤーのスイッチを入れた。
「土方くんって、女からしたら本当つまんないよねえ。何で銀ちゃんと友達なの?」
「俺も知らない」
「ねえこの濡れてるとこオーストラリアみたいじゃない?」
「オーストラリアみたいじゃない」
熱風の当てられるセーターのたるみが、さざ波みたいに震える。チャイムの音が長い尾を引いて、白い保健室に響く様子はしまった記憶に小石をなげた。
「・・・俺だって・・・」 昔は・・・
ドライヤーの騒音にかき消された自分の声が、初恋の人を形にしかけて溶ける。 視線を外して、窓の向こうで遠くなっている男子の背中を伏せた横目で見つめた。
言わないの? 坂田に?
・・・言えないよ。
初恋をのぞいて、女に興味を持ったことが一度もない。 ・・・あの男は、俺がそれを坂田にだけはバレたくないことを知っていて。
それが自分の唯一の弱みだなんて、あいつには言えない。
廊下に戻ると、あちらこちらで浮かぶ会話から、放課後の色がじんわり染みだしていた。 その中をいつもの足取りで駆けぬけているのに、一人だけ日常を背後に置き去りにしていくような、 濡れてうすら寒い背中を感じた。乾燥しきっていない袖が手首まわりで、気持ち悪い。
駅のホームでいつものように高杉や桂と一緒にいる銀髪が見えた気がしたけれど、離れた位置で柱のうすい影に踏まれた自分の靴先を見つめる。
ぼんやり柱に肩をつけたままそうしていると、
『土方土方、ここ見て』
『何』
『俺の筋肉、十字架みたいなマークになる』
心底どうでもいい会話の場面で、坂田のまくった袖口と笑んでいる口元が何だかふわっと浮かんで溶けた。 体重をかけた肩の刺し傷が痛んで、例えば、そういうことだけをしまったまぶたを閉じる。


(・・・何か、喉の奥、熱い。)
部屋に戻って、濡れたままの制服を着替え、しばらく床に寝転び反った喉を手の平で押さえた。 反対向きの視界で、黒い窓は夜の空、ぼんやり眺めていると宇宙が見えてくるような気がする。
果てしないそれに比べてすぐそこで震えている小さな携帯が、室内のぜんぶの音を飲みこんでいる。
「・・・・うるせーなあ・・・」
目をつむったまま声に出してみて、だるい指を折り曲げた。昼に水をかぶったせいなのか、だんだん肌寒さを感じて立ち上がったところで、 土方は体の動きを止め、何かの気配に外を振り返った。予感通りに道路でたたずむ人影が見えて、一瞬全身がかたまる。 そうしてカーテンから半分だけのぞきこんだ次の瞬間、あ、と口を開いた。
「坂田?」
「その声、土方?」
窓を開けた向こうで、暗がりの銀髪が紙袋を二つ重たそうに両手に持ち、「もー何で電話出ないんだよお前ェ」と大声で文句を言った。 玄関のカギを回すと、初めて見る私服の坂田が確かに髪だけはいつものシルエットで居た。
「何だ・・・人ん家の前で怪しく立つなよ」
「誰だと思ったの?」
「・・・いや」
「お前あのまますぐ帰っちゃうんだもん。 お前のクラスの奴に住所聞いたらあやふやでさあ。はい美味しんぼ。こっからラブストーリーあるよ」
がさがさと紙袋を持って部屋にあがりこむ坂田が、夜の空気をつれこんでくる。
いつもの間取りが一気にばらばらにしたパズルのような浮遊感になって、坂田が居る、という事実だけに焦点が集まった。 破れかけている紙袋をどっかり置く坂田を見ながら、立ったままくつ下の中の指でなんとなく床をする。 やることのなくなった坂田がこちらに向き直り、土方は一瞬息を閉じた。 やけに目をどこにも動かさずじっと自分を見ている坂田は、くちびるを開いてから何か別のことでも考えていたみたいに遅れて声を出した。
「土方、俺、喉かわいたなあ、こんだけ重いもん持ってきてコーヒー牛乳くらい出るよねえ」
「・・・はーったく頼んでねーよ。つーかねーよ」
言いながらも喉でつっかえていたため息をついて、キッチンまで一応湯を沸かしに行く。火を点けてドア越しに振り返った先の坂田が床に手をつき頭を傾けていることに呆れた。
「漁るなよ」
「ついでにこの前貸してた分持って帰るけど。その前にさ」
「漫画なら・・・」
やかんの取っ手から放した手でベッドの脇を指さそうとして、瞳が止まった。
「なあこれ今日着てた制服?」
まだ乾いていないシャツとセーターをひっぱりだした坂田の視線が、血のついた肩と水以外の精液で濡れた胸のあたりに落ちている。 ばさっと放られ、漫画の角の上に、シャツが重なる。
坂田は髪に手を入れたまま、無断で開いた携帯から、静かにこちらへ目を上げた。
「そんで、何。この着信の量」
体中から血の気が引いたのが自分でわかった。
目の前で、一番知られたくなかった男に、だからこその結果を、暴かれかけている。空気にさらされている肌が急にざわりと冷えた。 圧迫されたような心臓の上から、声が言葉になって出てこない。
携帯を置いてこちらへ向かってくる坂田の足取りを止めることもできずに、近づくその影をただ見つめる。
「土方」
強い声で自分を呼んだ坂田の手が、コンロを切って台につく。
「こないだからお前に勝手なことしてんの、誰」
至近距離の坂田の瞳に映り込んだ電気の光がひどく真剣でまばたきを忘れた。
目を見開いたまま、くちびるをわずかにだけ開けてそれを見返す。
勝手なことって、だって、そんなこと。
・・・お、れは。
ど、うしてもお前にだけは、バレたくないことが、あって。俺が男しかダメだなんて、絶対に。もし、そんなことで、お前が。たった・・・それだけの、 ために。
ただ、坂田のそれが軽蔑でも冷めた視線でもなく、桂でも高杉でもなく自分のための怒りで、坂田の深い性分だと思うと、 これまでフタしていたことがいっぺんにあふれ出そうに熱い揺るぎが胸にこみあげて、 息が浅くなった。喉が変に切ない痛みでかすれた。
(・・・わかった、コレ、風邪だ・・・)
ずる、とキッチンで支えていた背がずれ、坂田がこちらの手首をとっさに掴む。 「おい、何? 何か言って」という坂田に、ゴン、と頭を台にぶつけて苦しい息を押し出すのと一緒に、精いっぱいの理由を吐いた。
「知・・・られたく、なくて・・・」
「何が?」
てかお前、熱い、と坂田が両手の手の平でこちらの首をつつむ指に髪がするり崩れた。
だから、そういうところ。
お前を、好きだということ。
こんなことで、泣きたくなるほど、 そうやっていつもの距離でお前が自分に触れる日常以外なんにも望んでなんかいないから。それだけ言えないことは勘弁してほしい。



電車の外は雨だった。
停車する各駅のホームは、真っ白にひやりとうす暗い。
いつもみたいに頭をポールにくっつけ、平たいポケットに手を入れる。
熱に浮かされていたせいではっきりしない記憶をたどってみても、携帯をどこにやったのか思い出せない。 いつ寝てしまったのかも覚えてないし、目が覚めたら坂田はいなかった。・・・そりゃそうだ。しかし
(・・・・完全にバレたよな。)
今日坂田に会ったら何て問い詰められるかと考えると、彼の最寄駅でしれず意識をひそめた。 坂田が乗ってくる姿は見つけられず、またガタンと発車した電車内で肩をおろす。
学校の駅に着くと人波に押しだされるように、・・・どうしようと眠気の残るまぶたをこすって改札を通った。
「え」
その流れから、定期をしまおうとした腕をいきなり横へ引っ張られて、視界がざっと線になった。 人の肩に勢いよくぶつかり、思わずぎゅうと目をつむる。 色んな乗客の頭のすき間に片目を薄めた先で、銀髪が雨でぬれて光っていた。
「坂・・・」
人と人の間を無理矢理すりぬけるようにして駅を出たら、はぁっと息のあがっている坂田の横顔がこちらを向いた。 その右目の横にまだ赤いすり傷のような跡をつけて、袖で鼻血をぬぐっている。
「あいつうちの学校じゃただのイケてる男子じゃん。喧嘩なんか全く強くなかったよ。お前何やってんの?」
「・・・・・・・・・」
その言葉を聞きながら、目の前で坂田が切れた息を吐くくちびると傷を見つめる。そして世界から、しばらくあたりの人の会話や音が飛んだ。
ぽかんとしすぎた。
・・・・・・・・・まさかそいつんとこに行ってきたのか?
・・・・・・その割に、お前・・・・・・・・怪我・・・・・・・
色んなことが一気に渦巻いてく頭がだんだん真っ白になる。と共に、だんだん開いていった目が丸くなる。
そうだ、坂田はそういう奴だった。 当事者にはなんにも言わないで、1人で勝手に物事の決着をつけに行ったりしてしまう男だった。 雨の粒がとぎれた線になって坂田と自分の間におちる中、最近の日常が早送りのビデオみたいに流れた。プツンとテープが切れるみたいに、それが目の前で終わる。 戻ってきた視界で、銀髪がなびいている。
「土方とはつき合ってもないし弱みを知ってるだけで、最中にカッターで刺したりすると、・・その、いい顔すんのがいんだって。本当?」
普段のあまり開いていないまぶたのまんま坂田が眉をしかめて、こちらに携帯を返した。俺の手のひらの上でトン・・・と指を置きながら、
「ていうか、お前あんな奴に、ヤらせてたの」
と、ぼそりスネたみたいなくちびるでななめ横をにらむ。 その顔は暗になぜそんなことを好きにさせていたのかということを心から疑っていた。肝心の核心は知らないらしい。つまる喉から、ちいさく声をしぼりだした。
「・・・・その、お前は・・・・まだ、俺と話すのか」
「どういうこと?」
坂田が自分のためにしたことを思うと、そんなの。聞くまでもない。 手の中に戻ってきた、いつもうるさかった携帯をまだ声が出ないまま見下ろす。
一度、まぶたを閉じて、ひらいた。
(・・・・あっけない)
・・・俺、バカみたいじゃねえか。
だって俺は、坂田みたいな単純な光で物事を解決できない。 ・・・ちらと目をあげると坂田のそこにはりついている血が変な形にこすれているから、奴に一体何をしたのかを聞くのが先か、 何て言おうか思案した方がいいのか見つめ返している内に喉奥ですこしだけ、知れず笑いそうになったことに驚いた。そういえば、最近、笑ってなかった。 坂田が何事かとふいを突かれたような目をしてる。・・・細く、長い、長い、ため息をつき終わって、ビニール傘をさす。
「他に何か、聞いた」
「まだ他にあんの?」
突然声を荒げて振り返ってきた坂田の背中を、「ないならいい」と通学路の先の方へ片手で押す。
「お前に土下座する約束させてるけど」
「いらねーバカ」
「傘、入れて」
ばたた、と葉から落ちる雨がビニールの上を流れて、坂田が濡れた髪をかきあげた。 指の間から銀の粒が散って、つい、目を細める。
「・・・何で」
「ん?」
ちょっと、鼻の奥がつんとつまったことは無視をする。 別に、バレたからといって、お節介なんて頼んでない。 今まで耐えてきたことが馬鹿馬鹿しいくらいにあっさりとほどけてしまったら、自分の意気地のなさだけが残る。 何で俺のために、という続きは聞けなかった。その質問に期待を含めない自信がないからだ。 友達だから、坂田はそういうヤツだから、たぶんそういうものが答えでわざわざ本人に言わせることでもなかった。
・・・・・・友達だから?
(そういや、いつから・・・・・)
つやめくビニール傘越しに、合流したらしい高杉と桂の並んで揺れる傘を眺めた。
「・・・俺と坂田って何で話すようになったかお前覚えてる」
「えっ・・・さあ・・・」
坂田は、半分濡れている肩から不自然に雨粒を払ってそのまま指でかいた。
「心配しなくても言いふらしたりしねーよ。もったいねえし」
そういう意味で言ったんじゃないが、
「どういう意味?」
横目を向けると坂田は口を開いたまま黙った。それからこちらの頭を傘の外へ押してくる。
「痛てえよ」
「近いんだよ」
「なら入るなよ」
さり、と髪の毛が坂田の小指ですれた。そういえば坂田は自分の髪に触れる時、妙な時間をあけてから手を離す。傘をちょっと上にあげて 自分の髪をつまんでから坂田の方へ首をかしげた。
「ずっと思ってたけどお前って・・・」
「え」
「もしかして俺と同じシャンプー?」
じゃっかん何かを身構えていた坂田は、はあ、と雨空をあおいでから、今度教えてやるよ、と学校の玄関へ先に入った。 何で今度だよ、と追いかけて踏んだ水たまりが跳ねた。




昨夜、坂田は、土方の家を出てから、電車を乗り継ぎ、家まで歩いた。
あわい月はおぼろげで、夜の風が肌を吹いていく。
(漫画とか・・・・)
バカみたいな口実と、土方の辛そうな熱のこもった息、そういえば今日水に濡れていた姿と携帯に表示されていた覚えのない男の名前を思い返して、手のひらをみつめる。
(肩に血はついてるし、着信は全部不在だし、にしても、細っそい・・・髪先。)
自転車のカギの輪っかをぶらさげた指をゆるく握り、地元の商店街の並ぶ街灯をぼんやり眺める。
「・・・・」
帰り道の空には、坂田はいつでも土方と初めて話した日のことを思い出す。
あいつは覚えていないかもしれない。
一年の頃、高杉たちを待っていた俺は、階段で腕をついてぬくもった制服に顔を埋めうたた寝をしていた。放課後の音が泡みたいだった。 夕方が来そうな匂いの中で、誰かが俺の名前を呼んでいた。
かた。さかた
「坂田」
目を開けた自分は、違うクラスの男前が背後からこちらをのぞきこんでいることに、正直、びっくりした。
だって、そこかしこの生徒に脇目も振らず一人廊下を通り過ぎていく土方の姿は、いつも空気を切っていく風の余韻を残した。 ざわざわした学校内で、それは静かに揺るがなかった。 女子からの人気に拍車をかけるそのストイックさを坂田は「だから友達いねーんだよ」と思っていたし、 バカばっかりしている自分とはてんで縁がなかった。
起きぬけの自分は、ゆるい制服の袖を口につけたまま、ぽかんとそれを見つめた。
「お前が企画したっていう親睦会だけど」
「あ・・・うん? 聞いた、んだ?」
クラスで一番美人の子に声をかけたら、「土方くんも誘ってくれる?」と条件をつけられたのはいつだったか、 誰がこのとっつきにくそうな男に頼みに行くかという面倒を押し付け合ったのが遠いことのように思える。
「興味がない」
「あ、そう・・・」
(あーヤな奴)と思いながら、あっけない返事を聞いていると、 土方はすこし左右を見渡してから、かがんでこちらに顔をよせた。
「後」
「へっ?」
自分を真っ直ぐつらぬくその独特の瞳が突如目の前に降り、彼の背後の景色が滲んで遠くなった。
思わず、まばたきをする。
下に向かって落ちている黒い前髪が黒い目の縁に重なって、それが産む色の濃さに、一瞬、周りの雑音が消えた。
「落ちてる。雑誌」
ちょっと遠慮がちに声を落とした彼のくちびるの動きが、近くで影になって離れる。内緒話をするみたいに口に添えた片手の指の曲がり方が、声に反して柔らかそうだった。 視線の先を追うと、足元でエロ本がおおっぴろげにページを開けていた。
「げっ、いやっ、コレはその・・・」
わ、悪ィ、・・・と慌てすぎて素直に言いかけた礼と一緒に顔をあげると、もうこちらも見ず一段一段おりていく土方の背中が階段の角でとぎれた。 きれいな制服のラインが、目の前でぼうっと残像になった。

連れとだらだら学校に残った後、一人でペダルを踏んだ。
もうすぐ、夜がくる。
淡い夕方がはるか向こうに落ちていて、紺色の雲は波みたいに流れた。
その時、時間のはざまは空にあって、それ以外は全て風で飛ぶようなことだった。
自転車から見るいつもの夕暮れの景色は、時々、なんだか壮大で、知らないことばかりが広がっていた。
前髪が後ろになびく。
頭上でちぎれていく雲の灰色のかけらが、土方の瞳に、似ていた。
・・・・あ。

(・・・好きだァ)、と、思った。



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