2:隣の山崎 妙に新鮮だった。 目新しいものにはあまり興味がない土方の周りには、いつでも慣れたものばかりがあふれ返っていた。 茶碗も腕時計も冷蔵庫にはりついている磁石も、ずっと長年同じものを使っている。 小学校の時代から硬派な子供で通っていた。大人になって、煙草の銘柄も変えたことがない。友人も長い。ここには住んで4年になる。 だから、そんな気分はごく久しぶりだった。 隣の山崎だ。 ガタガタうるさい音とともに隣に引っ越してきた彼は、 そのことを恐縮するでもなく、隣人に会釈するでもなく、あろうことかただ、こちらを見るなり幽霊が出たかのようにしてとびのいた。 ビデオ屋がある。駅はわりと近い。 そして霊のうわさがないことが特に素晴らしいこのアパートでしょっぱなから、何てことしてくれるのか。 ドキッとするだろうが。 嫌な男だ。第一印象は最悪だ。どうせ隣にくるなら、ペドロがいい。 次の日、階段でばったり会ってしまった坂田の部屋にひきずりこまれて延々ジャンプの 展開についての文句を聞かされ自分の部屋前まで帰って来ると、 ドアに袋がかかっていた。中を見れば、『タオルです、使ってください、よろしくお願いします』、と 丸い字で書かれた四角いメモが入っていた。 残念だったな、タオルならべつに補充するほど困ってない。 要らないものを貰っても使うことがないのは明らかだったのでちゃんと返しておいた。挨拶なら正面からこい。 総悟や坂田の時と比べればよっぽどましだが、(幼馴染の総悟はガラスに穴をあけ忍び込んできたし、坂田は食べかけのみたらし団子を 差し出してきた) 見かけが常識人のようだったことから飼ってもない犬に手を噛まれたような気持ちになった。 そして、その日、悲惨な事態はやってきた。 夕飯の焼き飯にかけていたマヨネーズが、もうあとちょっと、というところでない。 (何だってこんなことに) 頭を抱える心のうちも知らず、総悟と坂田はダイ・ハード2の再放送をみながらのん気にもぐもぐやっている。 二人がマヨネーズを冷蔵庫に保存しているのを、見たことがない。 人にはDVDやペンチやなんやと借りにくる(そして言うまで返さない)くせに、まったく、なってない。 おい水、とえらそうにコップをかかげる坂田を蹴りとばして、財布を後ろポケットにつっこんだ。 スーパーへ行こうとしていた足が、ふっと山崎という表札に止まる。叶うことなら、もう今すぐにでも、食べたい。 だから仕方がなく、隣のチャイムを押したのだ。すべてはちゃらんぽらんな二人のせいだ。 山崎は期待をまた綺麗に裏切って、サラダなんかについてきそうな小さい袋のマヨネーズを差し出してきた。 呆れてものも言えないとはこのことだ。その上、なぜこれで駄目なのかをいぶかしんでいる様子であった。 話にもならないとはこのことだ。 それでも、冷静になって思い返してみると、彼の態度自体には、確かに好感を持った自分がいた。 山崎は敬語であった。頭をガン、とぶつけてまでマヨネーズを探しに行った。そして一応は譲ってくれようとした。久しく受けたことのない善意である。 嫌いな感情を改め、それなりによい隣人だなと思った。 それから大学にいって総悟の面倒をみて坂田のくだらないことにつきあってで忙しく、姿をみかけることもなかったので、 桃の件がくるまで、山崎については忘れていた。誘われるがまま、家にあがった。 昨夜、総悟たちが散らかしていった自分の部屋と違い、割と片付いていた。 初めての場所であるのに何やら落ち着く空間であった。無意識の内にゆるんでいたかもしれない。 彼らみたいにやいやいうるさくいわない、意味もなく体当たりをしてこない(そしてプロレスに発展しない)山崎をみて、何かこいつ楽だな、と思った。 坂田が酔えばときどき冗談みたいに「なー俺としてみねー」、とか何とかいうけれど、もし相手にするならばこういう奴の方かもしれない。 思っていると、山崎は後ずさった。それから、顔を赤くした。 それ以来山崎のなかで何が確立されたのかはしらない。彼は比較的、慣れなれしくなった。 彼らのようなそれではない。醤油を借りにきて、カレーを持ってくる。たまにお勧めらしいソーセージをおすそわけにくる。 まるで古典的な近所付き合いのようである。 もともと顔つきに垣間見えていた子分肌が前面にでてきて、 やっぱりときに目をさまよわせたりして、たじろいでいた。 「土方ーテレビみせて」 「いい加減買えよお前は・・・」 何度くり返されたかわからない不毛なやりとりである。 いつものごとく許してもいないのに勝手に作った合鍵で坂田が入ってくる。靴は投げっぱなしだ。夜になるとワイドショーを みるためにすっかり坂田のものになってしまったまくらに頭をおいて、我が物顔で寝転ぶ。 それを時間の目安に、土方はベランダに出てタバコを吸うのが日課であった。 戸を開けると、とたんに外のバイクの音なんかが入り込んでくる。そちらに足を踏み込んで、ガラリ閉めた。 月がおぼろげで、明日は雨であるさまが伺える。中の黄色い明かりを背に火をつける。 ふと隣で、戸が開いて靴のすれる音がした。 いちど、ゆっくり煙を吐きだす。 「山崎?」 「ぎゃッ」 よく叫ぶ男だ。隣の隔たりにちら、と視線をやる。洗濯物をとりこむのでも忘れていたのだろうか、山崎にとてもありえそうですこし笑える。 この前も白い服に桃の汁をつけたままだった。 「土方さん?」 確認しなくてもそうだ。声でわかれ。 「何してるんですか?」 「ベランダにいる」 「や、そりゃ俺もですけど・・・」 弱い声である。山崎の優男みたいなその声はよく耳をくすぐることに土方は最近気づく。 手すりに肘をおいて、ゆれる前髪の下で目を閉じた。 向こうはドアを開けたままでいるのか、なんだか記憶にある懐かしいサントラが小さく聞こえてくる。『ドラゴン危機一髪』だ。一度だけ入った山崎の部屋の様子が思い浮かんだ。 「好きなのか」 「ええ・・・・えっええッ?!」 「あ?」 「誰を、誰をですか」 「ブルース・リー」 ああ、と山崎が心なしか1トーン沈んだようなほっとしたような調子でいう。わ、と大きくなった下の通行人の笑い声が聞こえてくる。 「よくわかりましたね。映画、結構観るんですか」 それ以外は静かな夜に山崎の声が、ただよう。 「観る」、というと、「・・・あのー、じゃあ、今度、一緒に」という。 4年にしてベランダ越しに、上の総悟から物干し竿を投げてこられたことはあっても、 そんな落ち着いた会話をしたのは初めてである。かるく感動する。 なんか、恋人同士みたいだ。 なんの気はなしにそう口に出すと、隣でゴジラの襲撃のようなものすごい音がした。一瞬、蹴破って何事か見にいこうかと思った。 「だだだ大丈夫大丈夫です」とどもる山崎と明日そちらの部屋で観る約束をして、スタンド灰皿にタバコを押し付け、じゃあな、とドアを閉め 部屋に戻ると、いつから見ていたのかわからないあたりが怖い、坂田の眠そうな目と、合った。 「土方」 「な・・・に」 「テレビの調子悪いぜ。もうそろそろ買いかえた方がいんじゃねェ」 だっ・・・からてめーが買えよ。土方はライターを投げながらため息をついた。わざわざはっきり名前を呼んでまでいう文句でもない。 どうして自分の周りにはこんな男ばかりしかいないのだろう。類は友を呼ぶというあれは嘘に違いないとここ数年土方はずっと信じている。 山崎は、わからない。少なくとも自分と似ているなんてことは決して、ない。 けれど、 どこにでもいそうで何故か自分のそばにはいない人間(ほんとうに謎だ)であり、坂田たちと違う世界で生きていることだけは確かな事実である。 どうしてことあるごとに並べて比べたがるのか不思議だが、言い訳がほしいのかもしれない、と考えて、土方はそのまま何かを引き寄せそうな 思考に中止をかけた。どうせ明日は雨なのだ。山崎の部屋でゆっくり映画に没頭してれば忘れられるだろう。そんなのん気なことを考えていた。 |