※銀+土が海の幼なじみ = かなりのパラレル


















光が、黄色いダイヤモンドの形で降ってくる。
俺とお前は並んで真夏の影になる。
砂を踏んだ俺たちの足あとが、子供のころと同じようにこの海辺でいくつもずっと続いて振りかえった時、そのつま先がだまって波を蹴った。 散った水滴をかぶったその黒いまつ毛から、ぱた、としずくのかたまりが落ちた。
太陽の中で、濃くぬれた葉のようなそれが持ちあがる。
水平線を遠く見つめる横顔がそのまま「ぎんとき」、と開くくちびるにとうめいな水のゆらめきが残った。
育った海辺は何も変わらないのに、お前の瞳だけがそうして俺の知らないものを持っていく。痛い恋を知って大人びる。
それは儚く汚れて、うつくしかった。
生まれたときからなじんだ潮の香り。 そのなかで青く深く、すきとおる俺たちの時間。なまなましく瞬間をきざむ剥き出しの足が、波音の間で俺の隣を歩いてく。



こんな田舎の海辺に、俺の兄が教師としてやってきたのは7月のことだ。
当たり前みたいに全てはこの海たったひとつでできてるんだと思ってた15やそこらの俺たちにとって、それはよそから吹いてきた知らない風だった。 俺が一度だけ見かけた、白いフェリーからおりてくる彼は、ここの夏にかがやく家族連れやカップルたちのどれとも違って、さっさとタバコの煙をのこしながら、 やけるような景色のあいだで後ろ姿になった。そんな足取りで彼は、土方の宿屋が隣で経営する下宿アパートに住みつき、すぐに、土方の心をさらった。 それは、波の一つのように、刹那的であっというまだ。ただ精神の世界を一瞬で濡らしていった感触のあとがいつまでも手のひらにのこる。
土方はそういう人生のタイミングに出会ったのだ。
俺は海でボードにまたがって朝の陽射しに鼻先を向けながら、はあー、と語尾が抜けた声を出した。
「あんなメガネのおっさんどこにでもいない?」
「いないよ」
「結婚してるかもよ?」
「うん」
隣で同じようにして揺れている土方は、髪の束がまなざしの横がわにはりついて光のつぶに濡れていた。 額を拭いながらそれを見た俺は、・・・あ、と思い、この季節の始まりのような土方のあつい変化の予兆を感じた。
「具体的に何があったの」
「・・・何ていうか・・・夜、部屋にしそジュース持ってったら、先生が」
土方が片手で海をなぞって、つぶやく。 俺は、毎年大量に作られる土方の家のしそジュースの味を今年もおもいだした。むらさき色のそれは子供の頃からいつも当然のように冷蔵庫から出てきて、 氷の入ったコップに、ころんとそそがれた。
彼は、土方のことを「きみ」と呼んだ。 君、藍色がよくにあうね、というのが彼が土方に言った初めての言葉で、この青のことか、とシャツを引っ張ると、 彼はシャツではなく土方の瞳をしずかに見つめ返したんだそうだ。土方のその灰色は、夜になるとこわいくらいに深くなる海の色をにじませる。 命のねむりだす時間が、土方の(バカみたいに)まっすぐなそれをまるい水晶玉みたいに浮かびあがらせる。二階のはしの部屋には、潮風がよく入ってく。 その時もいつものように海の風が通り、2人の視線はつながったまま、彼の銀髪をどこかさみしい夏の夜の匂いで揺らした。 どうして急にかなしくなったのかわからなかった。何冊もの小説のページがぱららと一斉に音をたててめくれ、それは土方の瞳の中を吹き抜けた。
「一目惚れかよ」
「お前、君なんて呼ばれたことある?」
ねえけどさ、波に向かって両手でこぎ出すと、土方がついてきた。 やめろよアレ俺の、早い者勝ちだろうが、と言い合ってる内に土方の方が早くそれをつかまえていつものごとく波に遠ざかっていく姿を息をついて眺めた。 普段より戻ってくるのが遅い土方のせいで俺たちは学校に遅れ、 教頭と職員室の奥に入ってく銀髪の眼鏡は太陽のまぶしさをけむたそうにしていた。 「銀時、聞いてんのか。コラ、土方の坊」と釣り道具をデスクに置いてる担任の日常のかけらを聞きながら、(「君」ねえ)、とのん気に焼けた腕をかいていた。


次の日から、彼は三年のクラスを途中から担当するために俺たちの学校へきた。変にやる気のないよそ者がきたと学校どころか街中のうわさだ。 一年の俺たちが学校で直接関わり合いになることはないけれど、そりゃあ、俺と同じ銀髪と、はためく長い白衣が珍しかった。
「土方、俺の板きれいにしといて」
「どれを?」
俺のものは昔からぜんぶ土方の宿に立てているので、げた箱でそう頼んだ俺に顔を上げた土方は、向こうを遠慮がちな視線で追いかける。 その白衣は、視界のはしを淡泊に過ぎる。気づいた時には、もういない。なのに、その白さがやけに残像になって張りついた。新しい存在感にちょっと目をこすりながら、 いつもの土くさいげた箱で伸びをする。
「下の名前がバカみたいだよな?」
「お前が言うのかよ」
肩を寄せた小声で言い合い、教室へ先に入ってく土方とわかれた。 砂のついた足に、かかとを踏んだ上履きが、ぱっかと鳴る。塗ったみたいな水色が空に抜けてく窓を通りすぎ、シャツの袖をまくった。
兄といっても俺は一緒に暮らしたことがない。何せ、弟の家に一言もあいさつに来ない男だ。 今更、兄弟の情が生まれるほどドラマチックな展開は期待していなかったけれど、土方の片思いだけは気になった。 授業をサボって海から帰ってきたついでに、本当に教師なんてやってんのかと三年のクラスを見物気分でたずねてみる。 ドアの四角い窓をのぞくと、プリントを指の後ろにだらんと折っている白衣がサンダルで足を組んでいるのが見えた。勢いよくドアを開けて入り込む。
「おーい、兄よ」
「俺、弟なんかいたっけ」
教壇から顔もあげない彼は左にボールペンのフタを持ったまま、確かに本気でやる気のないまぶたをしていた。 家庭科で女子たちが切った土方の家のスイカを、昔からしてきた手の流れでさしだす。
「何で土方んとこの下宿なわけ? 俺ん家じゃダメなの?」
「そっちの家族は俺のじゃないでしょ」
「居候はいいのかよ」
「家賃払ってるよ」
「たまに宿の飯食うくせに。聞いたぜ」
「はー・・・お前が敬語でしゃべんないと怒られるの先生なんだけど・・・・」
俺の髪から落ちる水で、ぽたぽたと色の変わるプリントをどうでもよさそうに避け、 彼はタバコを出しながらぎっしと椅子に背をあずけて勝手に銀色のまつ毛を閉じてしまい、後ろに首をそった。 眼鏡に、ただ昼間の教室の線だけがまのびしていた。すーと目の前で指になでられているタバコは白衣ごと真っ白い。 俺はやり場のなくなったみずみずしいスイカを持ったまま、その無関心さに、つい、まばたきをした。 ゆっくりひらいた視界に、青がない。こんな男に俺はこれまで会ったことがなかった。スイカが下がり、ぽかんとした口が開く。
「・・・アンタって、都会から来たんだっけ?」
「都会人がみんな俺みたいだと思うのは大間違いだよ。他に聞く事ある?」
「あい色って、何色?」
目の前のガラス一枚へだてて、彼がようやく俺を気だるげに見上げた。
入りこんだ潮風がひと事のように彼の髪を吹いていく。 そのことを億劫そうにしている彼に、この街のモノは何ひとつまじることがなさそうだ。
瞬間、俺には、この男の白さの理由が血潮のひらめきでわかった。
この世の全ては彼に関係なく過ぎてゆく。世界はただの丸い星。 たぶん、そういうことにここ以外のどこかでとっくに気づいてきた人だ。そして、それこそがたまに誰かをはっとさせる。 きっと土方は、そのはっとした瞬間を見たのだ。 彼の後ろで午後の眠たげなカーテンがじゅんばんにふくらむ。 その合間にいつもの黒髪が見えたとたん、「あっ」と俺の色彩が戻った。
「土方! もう帰んの!」
「あー今日は大所帯の子供が6人・・・・」
大声で窓に顔をあげた土方の口が止まる。いつの間にか、プリントの束を肩に乗せた彼が背後に立っていてタバコを退けた。 俺の隣で、窓の縁に手をつき、その視線が土方にさがる。
「土方君。それならアイスでも買って帰るよ」
土方は遠目からでもわかるくらいまぶしそうな両目で俯くように頷き、「さようなら」と言って校門に向かった。
「帰れば会うのにね」
彼が間の抜けたサンダルを鳴らして教卓に戻る。 その言葉に俺は、・・・そうか、土方は、俺の知らない学校以外の時間で彼のこのあぜんとするものに毎日触れているわけか、 と改めて夏の気温にとけてしまいそうな土方の背中を見送った。



『乾いた体に! イオンサプライ!』
ポカリやカルピスのCMは、楽しさが切なさにかわる夏をよくあらわしている。 土方の宿の離れの縁側からぬるい夜風が入る畳でテレビを見ていたら、「銀時、来てたんなら手伝え」とおじさんに言われて、 ドラマが再開した画面にまだぼうと目を残しつつ立ちあがった。
「十中八九こいつが犯人だよ、しょーもなー」
俺はこの女優好きだな、というおじさんと入れ違いで、うちの店のトラックから箱をおろしている土方に寄っていくと、 宿の電球にほんのりうすい頬をのこしてアパートをみあげている。二階のはしに電気のついた窓は彼の部屋だ。 ただひとつの明かりにむかって瞳をひらいている土方は、近づいていく俺の足音もすうと届かないみたいに立っていて、
「・・・・・」
俺は、彼の途方もないような大人の匂いと、外界の空気がたたずんでいた全身の姿を、思い出した。
彼に星の出会いのような恋をしてから、それが、土方のうちがわを日々さらってく。 土方は小学生の頃、まぬけに浜辺のガラスを踏んで大けがをしたし、肝試しが嫌だとバカみたいに沖に流されていったのを漁船に拾われたこともあるけれど、 なんでも3日で治った土方が今更、あんな人間に恋をした、と熱をだしたみたいな瞳をしているのが、妙に不穏だった。
ガチャ、とビール瓶の箱をひざに乗せて、土方に並ぶ。
「あいつ今日もこっちで飲むの? ふつう歓迎会って一度で終わらねえ?」
「・・・さあ。おじさん、宴会がうるさいっておばさんに怒られてたしな」
いつものことよ、とおじさんがのんびり笑って箱を重ねた。
街の大人たちは、宴会が大変すきだ。 「まあ先生、一杯やんなさいよ」といった定番さで宿屋の経営に直接携わっていないのん気なおじさんやその仲間たちは、誰かが釣ってきたイカの刺身を離れに広げて彼を招くのだ。 土方は同じテーブルにつきながら、人の子供をあぐらに乗せて「コラこぼすな」と好き勝手動くその手の下を布巾で追いかけ、 彼の肘に近づいた距離を指さきのつめまで意識する。 そんな張りつめた空気も知らず、「先生、こいつは板にばっか乗ってて勉強なんてしよらんのですよ」と無神経に酔っぱらったおじさんが彼にビールをつぎ、 彼は「はあ」と縁にたまった泡から土方を見る。土方は「別に、してるよ」とおじさんに返しながらも、絡んだ視線をひそかな横目で見返す。 酒が入ったどこか甘やかな夏夜の騒ぎを、まぶたのあいだに閉じこめる。
「ちょうどいいや、俺乗せてもらって帰ろ」
トラックの荷台に飛び乗ると、
「前みたいに落ちるなよ。医者が迷惑だ」
「いつの話だよ」
すこし笑った土方は、ボードを持って縁側に座った。
その笑みは、向こうから聞こえる客たちの騒ぎの中にありながら、一人しずかで月の光をすいこむように見えた。 きっと俺が話だけで聞いている、彼が来てから変わった土方だけの時間をくちびるがひっそり含んでいた。 道具で表面をけずりだした横顔に、部屋からあかりにまじったテレビの色が、ぱ、ぱと映っている。 「先生ー」とおじさんが呼ぶ声を、下を向いたまま聞いている。
「タンクトップか、涼しそうでいいね・・・」
アパートからおりてきた彼が、うすい煙草の白をのぼらせながらサンダルでだるい片足をかき、土方はゆっくり顔をあげる。 熱をひめて彼をみつめるそれは、夜に濡れたみたいなまつ毛をしていた。 瞬間、俺は、あ、とまたも思うのだけれど、何に口を開きかけたのかわからなかった。
今年の夏は、土方にとって、特別な夏だ。過ぎてしまったら二度と帰れない、どうしようもなく、あつい、夏。 それがCMから受ける感覚でだけわかっていたつもりの俺は、ガタガタいう荷台から、 いつもの夜道にぽつんと小さくなる離れの光の中で土方の姿が遠くなっていく理由をその内すぐ胸のばしょで理解する。



「でもどうなのー教師と生徒って。まさか漫画じゃないんだからさ」
学校がない休日、いつものように、海の家の隅っこでボードにワックスの線を引く。何も答えずごりごりやっている土方を隣に、
「タイトな黒と、フリフリの白だったらどっちがいい?」
しゃがんでそれを塗っていた俺たちは、女性客たちが多い目の前の海をだれたまぶたで眺めながら、「黒」「白」と適当に汗をぬぐった。 担任の息子が「俺トロピカル系の派手なやつ」と焼きそばのいい匂いをひっくりかえしていた。 土方が、次そっち貸して、と俺に手だけ出す。俺も手だけでワックスを渡し、晴れてきた雲間から、 浜辺と水平線の間でぐんぐん強い光の面積をひろげていく地元の海を今年もみていた。
「土方に人工呼吸したのあっこだよ。お前のファーストキス」
「お前もだろ。さすが気道確保だけはかんぺきだったよ」
笑って、ぬるい水を飲みほしたペットボトルの向こうに、ふと海の中ですこし慌てている女性に目をとめる。 俺はキャップを閉めたそれをトンと土方の隣に置き、彼女に向かって海に入った。 「取れた?」 と聞きながらざばざば近づく自分を固まって見返していた彼女の背後をのぞいて回り込む。後ろが外れて水面に漂っているビキニの紐を指でつかみ、背中できゅと結んでやった。 あ、ありがと、と言う彼女に、どしたのーと友達が2人集まってきて軽く水着のハーレムになる。
「土方ァーこっち来いよ」
浅瀬まで戻って、『氷』ののれんがふきぬける方へいつものように呼ぶと、後ろをついてきていた彼女たちへ、 土方が手を動かしたまま顔を上げた。
「宿の子だ?」「田舎っ子って感じだけど、イケメン」「なんか綺麗」
その時、彼女たちの小さな内緒話は品のいいイントネーションがここらじゃ聞かない声になって、遠いところできらと土方に重なりおちてきた。 それは前髪を砂の含んだ風と共にさあと吹き、
(・・・・。)
海パンのゴムに両指を入れていた俺は、急に暑さにぼんやりとして、土方に、再び、視線をあげた。
板を抱え、こちらに歩いてくるシャツをめくる潮風。恋をしてからの土方の姿は、確かに、いつのまにか、 景色からきりぬいたみたいに人の視界で目立ってただよう体をもっている。昨日、こんな仕草したっけ、と思った指先が、 今日、ゆらりとした海の光をすいとっている。そうだ。何に、あ、と思っていたのかといえば、あんな彼に恋をしたと聞かされてからというもの、 土方は、どこか、うつくしくなった。決して純粋なきれいさではなく、そこに落ちてる傷をもったガラスの粒みたいに波でゆれるたび光の角度を変えた。
こんな土方を俺は知らなくて、やけにゆっくりに映る土方の口の動きが、 ぎんとき、ほら、と海面で寄せた板を、ああ、うん・・・と受け取った。 土方がそれにひょいと彼女たちの一人を乗せる。夏の海は、海水浴の客たちにいろどられた波がきらきらとその間を縫ってかえってくる。 その中で土方は、柔らかい体をした女の間で浮かんでいて、 夕方まで遊んだところで、「ッあー」と水を払いながら浜辺にあがった。
「お、モテるね」
彼の銀髪が見えたのは、彼女たちが宿に帰って行く姿とそれに続く土方を見送っていた時だ。煙をなびかせた銀髪が体をななめにして彼女たちをよけ、 ちょうどその玄関から出てきた。俺は、「おわっ」と言った。案の定、まだこちらに顔の向きを残していた土方は彼にぶつかった。
「おっと」
煙草をはさんだ右手を口にあてたまま、彼は体勢をまったく崩さず片手で土方の肩を支えた。 反射的に彼を振り返ろうとした土方は、とちゅうでそれを止め、くちびるのすき間を痛いくらいに閉じた。 それから、俺たち3人はしんとしずまり、土方のはんぶん隠れた瞳だけが夕方のオレンジに、ゆる・・と揺れた。
(・・・あー)
俺は、その小さくふるえるようなかがやきを見つめた。・・・さっきまで俺たちはいつもみたいに海で遊んでたのに。 ビキニでたわむれる女たちの近さには昔からいつもの顔をまるで変えない土方が、彼の手のひらの感触だけで、こんなになる。 空気がゆらいだ色めきを持つ。そういうものを覚えた土方が、 すごく、一人の男に見えるのだ。「土方」、と俺は言って、 ぴくり動いた土方は「すいませ・・」と口を開きかけなにかそのままぴったり止まった。変な間だと思った。 土方の板で隠れていた彼の指が、腰の肌あたりから、つう、と離れて、「いーえ」と煙を立ち昇らせた。 なにかぎこちなく染まった初々しい赤さを目元にのこして土方が玄関の奥へ去っていく。俺は、すれ違う同じ銀髪を振り返る。
「何で土方の宿から出てくんの?」
「なんとかっていう魚運ぶの手伝わされたんだよ」
「アンタ、こっち来てから一度でも海入った?」
彼に半目をやって、俺はいつまでたっても電気がつかない宿の離れを不安に見上げた。子供のころ、おばさんにばれないよう、 早朝や夜中の海に出向くとき、俺たちは、その窓から見える懐中電灯の光一つで通じ合ったことを、遠くに、思い出す。





大人の言う事を聞かずに怒られることといえば釣り場の橋からダイブしたことで、 勝手に夜の海の家にもぐりこみ、性の話をしながら浜辺を散歩し、俺たちに特別なものは何もいらなかった。
「土方って毎年ここで砂に埋まったよね、ファラオみたいに」
「埋めたの誰だよ」
物心ついた頃から、2人で踏んできたそんな夏の砂浜を、ボードをわきに抱えて歩いている時なんかに、今年は、それに気づく。 今はいつもの景色に、堤防の上を、俺じゃない銀髪が通りすぎたりする。土方の意識を、つながった糸みたいに引いていく。
彼が土方を見て、2人の視線は、見逃してしまいそうなひそめた短さで、むすばれる。
立ち止まりもしない彼の去り際の横目が、「怪我した?」と土方の足の内側に触れていく。 彼を見送る土方の、潮風でふくらんでひるがえる黒髪のあいだが、空の青をとじこめる。 波間のひかりにつつまれたその姿は、目にとめる人をせつなくさせるほど、一瞬一瞬のかがやきを生きてるみたいに見えた。 それはまるで、ろうそくが身を削る炎みたいで、今という時間がひどく短いことを知ったみたいだった。 その姿を見ていれば、土方の恋が、どれだけ大きく密やかなエネルギーで土方のなかに流れているのかが、よくわかった。
一日、一日で、どんどんそんな存在感が変わっていく土方の青春のスピードは、いつもいっしょにいる俺が乗る波を越してしまって、 俺はどれだけ走ってもそれに追いついていけないような気がしていた。



うちの酒屋で店番していると、学校帰りの土方がアイスを取ってきて「夜来いよ」と100円置いた。 それをレジにしまいながら「何かあんの?」と聞くと、「まあまあいいじゃねーか」とすぐに出口へ向かう。
「まさかまた子供のお守じゃねーだろな!」
「花火あまってたら持ってこいよ!」
台から乗り出した俺に、土方がそれだけ答えてガラス戸を抜ける。あ、やっぱりそうだ。
(ったく何をそんな急いで・・・話くらいしてけよ)
最近、土方は、俺の知らないところで夏を駆けている。土方の恋が実っていないのは、たまに吐かれるため息の感じでわかる。 かと思えば、ふっとエアポケットに落ちたかのように伏せた瞳のなかで、何かの予感をじっ・・とみつめてる。
(何だろうな・・・)
扇風機の向きを変えつつ、入り口のガラスを見ると、店の外のクーラーボックスにだらり腰をあずけている銀髪がいて、指を羽にはさみそうになった。
「やあ、帰りが一緒になってね」
彼は肩越しから俺に視線を向け、店から出てきた土方へ目を戻し、「ああ、俺も何か土産あった方がいいかな」 とボックスから体を離して灰を落とした。
「いや、いいです、アイスクラッシャーきたばっかだし・・・」
「そう?」
と言う彼の声は、早すぎず遅すぎず土方との会話のあいだでゆれていた。学校から帰った後の時間をたまに共にするだけあって、 俺とは別の時間が彼らの間には流れてきてるんだな・・・とぼうとする。 後ろ姿になる2人に、「おーい、土方のは土産じゃなくて自分の分のアイスだぞ」と言うと、 土方が子供のころからお気に入りのそのアイスを握ったまま、「うるせーよ!」と一度だけ振り向いた。ガラス戸に背中と伸ばした足をつき、歩いていく彼らを眺める。 夏の雲が、あちらからやってくる夕方にかたむきかけて、犬の声がうすいだいだいになる。 何を話しているのか、手で陽射しよけの影を作っている彼が、アイスを土方の指からはがし取り、それを見上げた土方はみたことのない横顔をしていた。 ここからでもわかるあの天然のような真面目なような丸い瞳が伸びる彼の手でゆっくり影になり、大人の指は土方の耳の後ろにおりる。 彼が何かぽそりと言って、土方の目は開かれた後でくるしそうにゆるんだ。
(ていうかさ)
「何で、呼んどいて土方いないんだよ! あいつ連れて帰ったんじゃないだろな!」
中庭で袋から花火を出してしまっている子供たちをばたばた追いかけている俺を放って、親たちはおじさんと親戚話に花を咲かせていた。 「ひじ・・・十四郎は? 先生と帰ってきてねえの?!」、ぎゃあぎゃあいう子供をはがいじめにして聞く俺に、「知らんー」とおじさんが世間話の合間に笑って返してくる。 知らんて。もう夜の8時半だ。
「にぎやかだねえ」
落ちる花火を拾っていると、アパートの二階からなぜかシャツを肩に羽織っただけの彼が顔を出した。
「あっお前、土方どこやった?」
「さっきから聞こえてるよ、そんな人攫いみたいに。銀時が呼んでるよ」
うるさい子供たちをすこし迷惑そうにして、煙を片目でふさぐ彼が部屋の中を振り向く。 すこししてそのアパートの階段から出てきた土方が、「予想通りのカオスだな・・・」と寝起きで熱をもったようなまぶたをこすった。 ・・・こんなかすれた声初めて聞いた、と俺は一瞬だけそれを見た。 そのシャツを引く子供たちをつれて、俺たちは色とりどりの花火を拾い集める。そうして今年も俺たちの思い出は一緒に増えるけれど、 俺にも感性はあって、じんわりとけていく夜の情緒が土方のほほだけをかすめとっていくのを隣で感じていた。 燃えるような、短い夏の命が、土方にだけ、ともっているのがみえるのだ。

すこし甘くて、うたかたに淋しい。夏の花火の夜を土方と過ごすのはすきだ。
その夜は、まるで別世界のようにファンタジックだった。
「ッはー土方交代ー」
ずり下げられそうになる海パンを腰で握り、バケツの遠心力に夢中の子供たちを土方に花火ごとバトンタッチする。 何のへんてつもない透明のライターはコンビニでも買えるし、宿にもあるだろうけど、なぜか彼のものである気がした。砂浜に腰をおろして、子供たちに、
「それ100回まわしたら空飛ぶんだぞ」
と言うと、
「うそつくな」
土方が色の変わる花火で、ゆるやかな弧を夜に描いた。まぼろしのような光景に、俺は目を細める。
まばゆさが細かく闇に散る。子供たちに引っ張られる土方と一緒に、海にいくつも光が走る。小さなパレードのようなまたたきが波の前にちらばっていく。 砂だらけで戻ってきた彼らに、また人数分の火をつけてやったら、子供らが俺たちとじゃれあい、 その中でシバシバとオレンジに明るくなったり消えたりする土方の輪郭。笑っているくちびるの角や、袖からのびた手や、ビーサンの足が何度も焼きつくように暗がりに残る。 夏夜の風は飴みたいな匂いがする。
なんとなく宿の隣の二階のはしを振り返ると、開いた窓にタバコの赤い点が見えた。
(こっちを見てんのか、それとも単に涼んでるのか)
親戚たちが戻ってきて、子供の面倒をぜんぶ返した後で、俺たちは浜辺に座った。 月の明かりを反射する海を先ほどの余韻にひたりながら風に吹かれて眺めていた俺は、 「なあ土方、今から乗らねえ? 見てあの面ツル」と土方を見た。ぱっちと俺と顔を見合わせた土方は、しばらくざあんと返る波の音だけを聞いていたが、 「あー怒られる」と立ち上がり板を取りに行った。すぐに戻ってきた土方がそのまま走って俺を追いぬいていくので、彼の蹴った砂つぶが俺の足にあたった。 それをいそいでばしゃばしゃと追いかけ、俺たちは同時に暗い海の中へ飛び込む。
あたりの境界線はあいまいで、見渡す限りが黒く広い。子供たちの花火の声と、精神の底に沈む感覚。
夜の海は宇宙に似ている。
神秘的で幻想的でどこか夢のようだ。潜ると全身の血がしんと澄む。静かなそこは果てしない。たとえばこの世の真理や生まれてきた意味のしっぽを掴めそうな気さえする。 この一瞬が俺は昔から好きだ。 板に手をついて顔を出すと、夜空は水平線までおりていて一気に星くずへ届きそう。ざあと夜の水が俺を流れてく。土方が残す波の跡、音。 月の光が照らすポイントを頼りに、一つだけ乗った。 「あいつら花火で手ェ振ってるー!」「バカ、バレる!」とすでにワイプアウトしていた土方は、ざばっと出した額が、前髪が水で後ろに流れ丸出しだった。 そこに向かって無言で近づく。
「・・・なー昨日聞いた怪談がグッピーの幽霊って話聞いてくれる」
「てめっやめろ、何で今言うんだよ!」
「思い出したから言うんだよ! なっいい話だから! 分かち合って!」
「怪しい話で怪談だろ! 掴むな!」
「押すなよ、落ちる!」
「てか、グッピーて海にいんの?」
「・・・・」
ひとしきり騒いだ後で、ボードにまたがり、ちゃぷちゃぷ2人で揺れた。海面には俺たちの他に誰もいない。 水平線に船だけが浮かんで、きれいなあたりの青白い光が俺たちを囲んでいる。 小さな水音が互いのひたした両足の近くでしている。まるでウソみたいな時だと思った。夜のひと時は、たまに現実離れしている。首を真上に向けて、月を見上げた。
「俺、今なら何が降ってきてもびっくりしない」
黙って俺と同じ空を見た土方は、すこしだけもの悲しそうに瞳をゆるめた。昔は、互いの意識のひもが先でからまるみたいに、こういう感傷は交差した。 その時、俺は、土方の経験していることが俺とはまったく別のものであることに気づいていた。 同じ夜を過ごしているのに、これだけ近くにいる土方の見ているものが俺が見ているものとはかけ離れてきていることをすぐそばで感じとっていた。
今という時間は永遠には続かない、という人生の約束を俺はたぶんこの時知った。
その時の流れで、俺の知ってる土方が恋なんかで変わっていってしまうのが、さみしかった。







(あ、また土方だ・・・)
予感通りなのか、俺が気にしているからなのか、その姿は遠くからでも静かに目についた。
朝の浜辺をすと、すと、と歩く足が、今までより生身のはだ色をしている。
それを見た俺は、土方の見た目がすこし変わった、と思う。
そこにかげろうみたいな揺れをひそめるようになり、ふとした動きが突如光を放つ。 その体の定まらない不安定さがまばゆくて、それはどこか胸にうったえかけてくるような痛い輝きをもっていた。 その中にある恋心と、肉体のバランスのずれのあい間にうつくしい影がただよっている。土方は、急激に色っぽくなった。
「土方、オレンジでいい?」
「うん」
追いかけてきた俺を半身だけ振り向いて、炭酸のジュースを受け取った土方の手首がゆるくおれる。軽くなった俺の手に、液体の余韻がひびいた。 海に入る土方の、うなじにかかる黒髪から首すじにつたう水のあとをつられたように見つめる。 それは、夏の光にあやういゆらぎを持って、今までのように俺が簡単に触れてはいけないもののような気がした。 その遠さはどうにもしがたくて、たまに子供みたいにスネて引っ張り返したくなった。 土方が変化する、ということは、俺たちの関係も変わるということのように思えて、足元がすこしぬかるんだ。 どうして俺と違う方へ行こうとするんだと言おうとしても、それがどこなのか知らない俺は言葉にして口に出せなかった。
「やべえ今何時? 俺ら次遅れたら反省文だよ」
浜に向かいかけて振り返った先の土方は、はっとするくらいまなざしが刺すように強くきれいで濡れている。 かと思えば、一度もぐり、ざ、と上がってくる顔がどこかへ行ってしまいそうだった。
「あっ土方!」
叫んだ時には、土方にボードがぶつかっていた。相手は余りのクリーンヒットに慌てて謝ったが、今のは揃ってぼけっとしていた俺たちが悪い。 沈んだ土方の方へ寄って行くと、土方は肩を押さえて海面にあがってきた。
「バカお前、人多いんだから」
「わかってるよ」
その手をどかせてのぞきこもうとした手をやんわり払われ、俺はむっとする。喧嘩はしょっちゅうの俺たちだからすぐ忘れてしまうけど、 最近の土方のそういうものには、はしっこに陰りがあった。土方自身も自分をどうにかしたそうで、それを両手いっぱいに持てあまして、 その悩ましさが色気になるから俺は、どうしていいのか、困る。
「祭り、行く?」
海辺から学校へ向かうとちゅうで、自転車の後ろの土方に小さく聞いた。土方は、んー、とも、なんともつかない声で俺に額をつけたまま、 シャーと車輪は海沿いの坂道をカーブしておりた。その髪がすれる細い感触が、背中に汗になってくっついていた。なぜか、急にかわいた喉が気になった。
「行こうよ。もう金魚押しつけたりしねえから」
「ん。浴衣、借りに来いよ。帯しめてやるから」
と、学校に着いて、俺から離れる土方の指先がきれいな影になって夏の地面に落ちる。・・・自転車を木陰に入れ、俺はすこし下を向いたまま暑い気温を襟ごと肌からはがした。 海でシャワーを浴びる暇がなかった俺たちは、校舎裏の水飲み場で蛇口にホースをつないだ。勢いのある水を2人で頭からかぶる。ショーシャンクの真似して両手を広げる横で、 土方はふふとしずかに濡れたくちびるで笑う。宙にまった水たちが静止した丸になった。
「明日、何時ごろ行ったらいいの?」
「何だよ。お前いつも勝手にくるだろ」
そうだけど・・・と拾ったシャツで顎をぬぐいながらふと顔をあげると、目の前の一階の廊下に銀髪が見えた。 あ、と俺が言った頃には土方は気づいていたようで、彼は立ち止まって俺たちを見た。
「土方君。夏休みに俺があっち帰る件だけど。家空けるからおじさんに」
「・・・・」
まだ海水の残っている土方はちょっとだけ俯いてから、窓を開けて話しかけてきた彼に寄っていき、艶やかな黒髪が彼を見上げた。 とたんあたりの風の匂いが変わって、俺は、土方のふわり揺れるその髪を、まばたきをして、見た。
思わず、手からシャツがおりる。
水が肌からコンクリートに落ちる感触を妙にスローモーションに感じた。 彼らはまったくもって教師と生徒の距離で立っているけど、あるはずのないものがそこにあった。その間に浮いてる、濃く、密やかで、淫猥な、匂い。 そういうのって、空気でわかる。ということに、俺は初めて気がついた。土方ににじみ出した、色気の、理由。何で、いつから・・・? そういえば店に一緒に来た日、土方って・・・と目を見開いている俺を、彼が土方の頭越しに見る。 威嚇するでもなく慌てる風でもなく、ああバレた?といった具合で半分も開いてないまぶたを細めるのだ。
「ひ、じかた、先行ってる」
ん、とこちらを向く土方の顔が後ろで景色の線になる。 あホースの水出しっぱなし・・・と頭の奥で考えながら、 土方が変わっていく理由に俺は心臓にまるい穴をあけられたような気分になった。

「・・・・・・」
宿屋の離れの裏口からいつものように勝手にあがり、土方の部屋にいくとかんじんの姿がなかった。夕陽が窓から入り、畳の半分を赤く染めていた。 机の前の椅子に座って、一周ぐるっとまわる。いつだったか一緒に拾った大きな貝がらのカケラや縄にしばられたガラス玉が目のはしに過ぎて、机の上のライターに戻った。 隣にタバコの箱がある。あの時三年の教室で見た彼の銘柄じゃない。昔、おじさんにつれて行かれた旅行先で作ったすずしいぐい飲みのグラスに吸いがらが二つころがっていた。 俺は白。土方は紺色。
「どこ行ってたの?」
足音に、背を向けたまま聞いた。
返事がないので振り向いたら、土方は浴衣を二着持って、「お前どっちがいい?」とそれを片手ずつに分けた。 よもぎ色の方を指さし、自分のシャツのボタンに手をかける。服を脱ぐ俺を、土方はあぐらをかいた太ももに頬杖をついて絵みたいに眺めていた。 背後で広げられた浴衣に腕を通し、前を合わせる。土方が後ろから帯をのばした両腕が俺の腰にすれてまわる。足の指に力が入る。 下半身で、見えない気配がしめつけてくるように近い。この肌を、彼と合わせている。このごろなまめかしくなった、土方の、雰囲気。 俺はほとんど反射的に、ばっとその体を押しやった。
「何?」
「いい」
え?と、言う土方にもう一度、いい!と浴衣を強く引っ張った。
それは、小学生のころ教科書で読んだ得体のしれない追いはぎだとか、船を漕ぐ姉妹から伝わる冷たい怖さだとか、 そういうものに覚えた感覚に似ていた。知らないからこそ、漠然と不気味なのだ。 音もなく、くちびるをひらく土方がまるで女の人形に見えた。両手に帯をたらしてこちらを見上げている土方が、 なんだかものすごく濁ったものに見えた。土方がらしくもなく、・・・何でという瞳をするのがわかった。
制服に着替え鞄を持って土方の部屋を飛び出し、宿に並んでいる俺の板を一つ抱えた。浜辺には浴衣の男女や家族がちらほらいて、ロッカーも海中も空いていた。 ざぶん、と水の中に自分をしずめてしばらく目を閉じる。そんな風に土方のことを思ったことが、ショックだった。ただ当たり前みたいに一緒にいたから、びっくりしたのだ。 いつもの海、子供のころから色んなことの全部はそれだけでどうでもよかった。吐いた息がいくつも泡になる。 波にも乗らず、どれくらい浅瀬でそうしていたのか、気づくと土方が隣にいた。板を持って、そこに黙って浮かんでいる。 不思議と驚けなかった俺をじっと見てから、いつものように沖へ向かう。 割れた海のあいだから土方の体がのぞいて、頭から落ちてくる波の中を綺麗にすべった。 何本かをそうして見送り、俺も沖へ漕いで波をつかまえた。完全に夕陽が落ちて、俺たちは海の上に並んで、祭りの騒ぎを遠くに聞いていた。
「・・・好きなだけなんだ」
土方の肌に、海の深い青が揺れる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・うん。
「でも。あいつは、お前のことなんか」 きっと
だってあんな男だ。誰かを、何かを、愛せる人間だとは到底思えない。それも、こんなにも若いお前を。お前はいなかの少年で、 ここ以外のことをなにも知らないのをいいことに、ただ体よく遊ばれてるだけだ。
「それでもいい」
黒い前髪から、水の玉が海面へ帰った。
子供のころから知ってる土方の瞳は、海水でゆるくぬれていた。 土方が、そんなせつない返事をするようになったことに、何故か、夜を見上げながら泣きそうな鼻がつんとした。

それから俺たちは遅い浴衣姿で、昔みたいにりんご飴だけ買った。 ごめんなんて言葉がなくても、終わりかけの祭りの音に染まった夜道を歩けば、互いをふく風が通じあった。 宿の前まで帰ってくると、アパートの二階の窓辺に銀髪が腰かけていた。
「何かやってたの」
アルミの灰皿を置き、煙草をくわえている彼は夜なのに眠たげだった。白衣を着てなくても、やっぱり全体的に白い人だと俺は思った。暗いあたりの中で焼けてない肌が、 浮いたような色で座っている。「夏祭りだよ」と答えてやった俺の手を、「浴衣で拭くな」と土方がつかんだ。
「ふうん。あがってく? サイダー3つもらったんだけど」
彼は煙の向こうから、土方の浴衣姿だけを、淡泊な瞳で見下ろしていた。俺に触れてる土方の指がはねる。 仕方なくため息をついて、「俺はいいよ。でもサイダーだけちょうだい」と正直な望みと友達思いな心で土方と二階まであがる。 昔ながらの瓶だけ受け取り、廊下を帰る背後で、土方だけを入れたドアが当たり前みたいにバタンと閉まる。 階段まで歩き、あ栓抜き貸してくんないかな、ともう一度その部屋の手前まで来た時、俺は自分の兄に心底あきれた。すぐそこからくぐもった声。ずる、とドアにあたる何かの音。 「あ、待って・・ッ」、とひきつる土方の声にゆっくり背を向け、祭りの余韻が残る夜空を見た。 さっきの土方の指を思い出して、きっといつもこうなんだろうと思った。そんなセックスしか用がないみたいなこと、土方は絶対望んじゃいない。 好きなだけ、それでもいい、と言った土方の言葉が星になって浮かぶ。
(・・・昔)
・・・林間学校でキャンプを覚えた。友達に借りた道具で、浜辺にテントを運び丸二日学校をさぼって2人で海にいた。ボードで遊んで、 夜になると土方の部屋で聞くよりも、波音がひどく近くて、ひそめた声ではなすお互いの魂がすぐそばにいて、漁船が指で作った丸のなかに浮かんでいて、 俺たちは、ああ今なんか気づいた、と思った。 人生はなぜあるのかというはしっこに。周りが気にしはじめてる色んな物事より、そういうことがたいせつだった。
「・・・・ッ先生、おねがい、待って・・」
そんな土方が今こうやって痛みや甘さで一人大人になるのを、止められない。切なげな声を後ろに、涙ぐみたくなるほどすっぱい炭酸の色が目にしみる。 ただ、どうか、土方が海で放つまぶしさやその鮮烈さがすこしでも彼の白を染めますようにと願う。







「今日小せえなー」とおっちゃんが、額に手をあてて遠くからかさなってくる波に首を伸ばした。「風噛んでるね」、俺も大人しく、濡れた腕であごをぬぐう。 みんなが、またがったボードで海に浮かんで波待ちをしている。ななめ上に突き出した色とりどりのボードの先が水平線を向いて、順番に小さく上下する。 「土方の坊はどうした?」「・・・仕入れで街行ってる」「お前いつもついてくじゃねえか」(だって・・・)と遠い波を見たまま会話し、 帽子と髪のあいだから、つたってくる汗がじりじりとして、影の中から目だけ上に向けた。
「喉がからから」、と上をあおいで首のすじを反るセリフは、そういえば土方が言うと、空はいちだんと青さを増した。
土方は、そういう人間だ。
俺が昔、トラックの荷台から転げ落ちた時、 血でぬれた髪をじゃり道にしいてきゅうと汗がにじみだすまぶたの間で、 遠い離れのあかりをバックに土方が「ぎんとき!」とこちらへ駆けてくる紺色のTシャツが、やけにしっかりとしたシルエットではねていたのを覚えている。
その呼び方は濃い一本の光になって夜をぬけ、やじ馬のざわめきをつらぬいた。
黒い道路の感触がひざこぞうにすごく痛くて、俺はようやく涙がでそうになった。 救急車を待っているあいだ、夜の中でシャツの虹色のヤシの木と、そばでじゃりに手をついて「お前、明日遠足だぞ」とかそんなことをいう 土方の声だけが心強かった。次の日、病院についてきた帰り道で、土方はそうして、俺のために買ってきたポカリを自分で飲みほしたのだ。 心配する言葉なんてひとつもかけてくれないくせに、俺のせいで渇いたんだな、とそんなことで土方の体温はつたわった。
土方の存在感というのは、たとえばそういうものなのだ。昔から。
俺だってちょっとした恋くらいはしたことがあって、 宿の客で俺たちにくっついてくる同い年の女の子のことを、すこし好きになったことがある。 (ちなみにその子はどう見ても土方を好きだった。) その子が帰るときは、かなしいほど晴れ空が甘くかがやく日だったから、俺は見送りの約束をすっぽかした。車のエンジン音の後ろに残してくさよならが、 いつか届かなくなるのを知っていたからだ。 「やあ土方んとこの坊だ」と常連客の声が聞こえて、俺は店の上の窓から顔を出した。自転車で足をついて、こちらを見上げている土方が見える。 うすい汗がのったまぶたが何も言わずに自分を呼んでいるので、俺はビーサンを履いて外に出た。
「ボードも持たずどうしたの」
俺を乗せて自転車をこいでいる土方の頭に聞くと、
「風がきれいだから」
と言って、土方は坂道でペダルから足をはなした。
ガードレールの向こうで、俺たちが息をするみたいに海も青い波で呼吸をしていた。
そのきらきらとした波の光を潮風がはこんで、白い雲の前で額をゆらした。 土方のなびく髪が、そこらからあふれるとうめい感につつまれ舞っていた。 いつもの海沿いの景色は、ずっとそばに置いてきたせいで古く錆びれて、けれどこんな時に磨けば一等ひかる宝物みたいにしてそこにひろがっていた。 そんな土方との記憶は、断片的に、ゆらゆらしたプールのひかりがつながってくみたいにこうしてゆれる。
(ふう)
帽子を持った手だけあげて、暑くなった頭をじゃぶと海の中にもぐらせ冷やしていると、
「お、銀時、来たぞ」
おっちゃんが向きを変えた。午前は調子がよかったかと思えば、 さっきまでしんと平たくなっていた海面に、今、白い泡をおしあげてくる波が見える。(・・・まるで人生の機微だな)




畳に転がって、カ、カ、カと壁にあたっている扇風機の首に寝がえりをうつまぶたの中で、思い出がじわりしみだすからかもしれない。
「・・・・・ダメだ・・・」
どうしてだか眠れずに、俺は、その夜、起きた。 昔から、ときどき、理由もなく、感性が夜の向こうがわへのぼっていくみたいにすきとおってしまい、寝れなくなる日がある。 こういう時は、むしょうに誰かのあたたかい家族の話がききたくなる。 ひっそりした階段をおりると、なるほど、外は雨が降っていた。いくつもの線が、濃い夜にかすんだ海面でとぎれては、さざ波にのまれていく。 ビニール傘をつたう雨粒が、ひょろりとした長いしずくになって地面に落ちた。傘にこもるしめった夏の匂いが深い。 雑貨屋の家の犬小屋に、いつものように、しーっと指をたて、海沿いの道を歩いた。 土方の宿の離れは暗く、ぼんやり灰色の景色になっている。引き返そうとした足が止まり、見上げたアパートの二階のはしは黄色く水滴にぬれていた。
「何か用?」
ドアを開けた彼は、予想通り、動じず平然と活気がなかった。
「ちょっと寝れなくて」
「お前、俺の息子か何か?」
正確には兄弟だ。正直に言ったのが正解なのか、訳はないのか、彼は特にドアを閉めず中へ戻った。 クーラーの風をひんやり額に感じたと同時に、たたみの隅っこでうすいブランケットに丸まっているその姿に気づいた。
「ひじかた・・・寝てるの?」
「寝ちゃったの。やりすぎたかなあ。おじさんにバレても俺が困るんだよね」
小声で聞いた俺に、彼は変わらないトーンでこともなげにそう言い台所のコンロをつけた。ぼ、という音が夜中の明かりの中で響く。 そのセリフに、俺は彼らの情事を想像だけでめまいのようにえがいた。この畳に散る土方の太陽に焼けた肌、潮をはらんだ黒髪。若く、どこまでもこの街のその体の上で、 こんな彼も額にうっすら汗なんかかいて性的になるんだろうか・・・。 壁につけた机にはばらばらの小説が積まれていて、ジャンプの下でぶあつい作文の束がしかれていた。 それをなんとなく見ている俺に、
「夏休みに入ってまで先生に会いたいかねえ、君たち」
「俺なんか酒買いにくる担任に、毎日会うわ。土方のおじさんとは同級生だし」
飲み物が出てきそうにないので、勝手に冷蔵庫を開けてみたらサイダーの瓶が二本内側に並んでいた。 彼は机に向かってジャンプを広げ、俺は畳に置いたコップに氷を落とし、今度こそ借りた栓抜きを持って、 ふとはてしない宇宙の中俺はここで何やってんだろうと思った。急に雨粒が数々の星になって自分に降ってきそうだった。土方は反対側の壁に寝息を吐いていた。
「先生の家族って、どんなの?」
瓶の表面が片手のなかにつめたく移るのを感じながら一応聞いた。彼がジャンプに目を落としたまま、手探りでタバコを取る。
「さあ。まあ言えることはお前はしあわせだということだよ」
彼の答えは、無難で、便利な、大人の言葉でずるいと思った。
「何で?」
意地わるく笑って、その中身のなさを暴こうとすると、
「お前には、土方君がいるから」
彼のライターに火がついた。
彼はなんでもないみたいにページを指でめくって、夜の雨は窓にはりついたつぶになってすべっていた。 土方のまるい背中が電気の下でブランケットのやわらかい影をつくっていた。 クーラーの空調が、ぬるい湿気をゆらした。今夜の精神がしずかになった。
期待したような、明るいリビングとか、そこでテーブルをかこむ笑顔とか、薄っぺらい幸福論とか、そういう話は一切なかった。 なかったけれど、そのぜんぶを視界におさめながら、どうして今日、俺は自分が眠らなかったのかがわかった。
この言葉を聞くためだったのだ。
すこしくちびるが開き、ぴんと張った雨の夜の感受性は、落ちてきたそれを両手で受け取った。
とても当たり前のことで、口にすると簡単で、でも何にもかえがたい、かけがえのないそれは、外の雨が地面にしみこむみたいに俺の血管のなかに沈んでわたった。 今日描いていた土方との思い出がめぐり、他人の声で聞いてみると、どうして、そんな言葉すら俺は手から離れていく気になっていたのだろう、と驚いた。 時間の因果やタイミングというのは不思議なもので、たまにこういうはざまへつれてくる。
「その土方は、先生のお前が好きなんだけどなー・・・」
「敵視されるのは心外だな。恋と友情は違うよ」
「あのな、土方はお前が遊ぶにはもったいないくらいの街の自慢なんだぞ」
ジャンプを読んでる横顔がなにも否定せずに、まぶたをなでながら一度眼鏡をはずすと、その顔はきっと年が離れているだけで俺に似ていた。 まるで他人なのに、兄弟という血が遠くで流れてむすばれているのを確かに感じた。
「・・・土方って、俺にされてる変な感じにならねーのかな」
「ああ、それ、一番最初に聞いたな」
彼は昨日の夕飯でも思い出すみたいに、眼鏡を拭いた。 そうしたら土方は、「あいつと俺のことは、人に言ってもわかりません」と言って、額にしかれた髪に笑ってふせたまつ毛がかさなり、その瞳は窓の海へ軌道をえがいたそうだ。 その光景が手に取るように浮かんで、泣きたくなるようなサイダーの味がすとんと胸に落ちてきた。それが伝わってしまったのか、土方の上下していた肩がやんでいて、 ブランケットの切れ目に髪がちらばっているあいだから土方の顔が雨のゆるい眠気をのこしてのぞいた。
「・・・・ぎんとき、寝れないのか」
コップの中の水色が、からんと鳴る。眠れない夜はいつもつきあってくれた、手にこすられる半分まぶたの下がった目。そんなことを知らない彼は、起きた土方に見向きもしない。 そのことに土方も何も言わず、ただ何かをあきらめたようなすこしかなしそうに伏せたまぶたで笑って、俺にむかって視線をあげる。
「海、行くか」
ブランケットの下は生まれたままの姿だった土方はそう言って、今更恥ずかしげもなくむくりと手をつき、海用の半パンに足を通して、立ちあがった。それから、
「ああ、スコールだったんだな」
と、後ろを振り向いた土方の声は切ない絵本を読み終わったあとみたいに耳にとどき、月の光が、その顔と夜の海面をてらした。 俺は、(・・・ああ)、とクーラーに冷えた夏の空気にふちどられた土方を見返した。 キャンプをした頃や、ヤシの木のTシャツを着ていた頃より、体が大きくなった。当たり前だった。・・・俺には、土方がいる。
土方は別人になったわけでも、何者にもなってしまったわけじゃない。ただ、成長しているだけだ。思春期の青をぬけているのだ。
そうやって土方は俺の隣にいるのだ。この街で。それはお前が大人びようと何になろうと変わらない。そうか。ただそういうことか。なんだか急に笑えてきて、 俺は土方の肩に親しく腕を置くようにして押した。向こうも押し返してきて、どすんと背中から落ち、「ちょっと、下に響く」と彼が頬杖をつく。 サイダーが髪先の横で、ぱしゃとこぼれる。
土方の瞳の中の藍色がまぶたの裏に残った。





土方の波が、水のうねりを分ける。
濡れた髪に太陽のしずくがしたたる。きらきらと舞うそれが、俺の目の前すれすれで宙に散らばってゆく。 笑う土方に「危っぶねーな!」とその一つ後ろの波を後ろ足で踏んだ。夏休みも後半に入って、俺たちは毎日のごとく海にいた。 目のくらむような波の光のアーチをぬければ、トンネルの向こうには先があるようにどこかへ辿り着きそうだ。
それで思い出したけれど、
「コッコの、強く儚い者たち」
「何それ?」
ボードを抱えて浜辺を歩く、そういうことには疎い土方が、濡れた髪を振っている。数珠つなぎの玉みたいに、しずくが手先からおちていた。
「一番の歌詞よく聴いてみ。たぶん今のお前なら、泣けるから」
砂を踏みながら堤防の方へ目をやった先には、土方の家のワゴンの前で銀髪がおじさんと何か話していた。お盆の間は都会に帰ってしまうらしい彼に、 たぶん土産の紙袋やクーラーボックスの説明をしている。 土方は彼らをすこし遠い目で見つめ、ふうん、とあつい階段をあがった。 確かに、都会に帰る、という言葉は俺たちにとっていつでも別れの予感を持っていた。 CDを貸したその夕方、離れにあがると、土方は音楽と波の音がつまった中であぐらをかいていて、 部屋に入ってきた俺に、歌詞カードへうつむいた鼻先を半分隠したまま、小さく「バカ」と言った。俺は笑って、その背中をたたいた。
それから、俺たちはおじさんに呼ばれて、宿の前まで彼の見送りに出た。 何度も、帰る客たちに残されてきた土方は、それが今生の別れであるかのような顔をしていた。 それを見た俺は、あの雨の夜、彼の部屋で何かを悟ったような目をしていた土方を思い出した。2人の間でその関係がどうなっているのか知らないけれど、 その顔を見てると、もしかしたら、本当に、怒涛のごとく注がれてきた土方の恋はここで切れるのかもしれない、というふとした勘があった。
「先生」
土方が彼を呼ぶ声は、これまでにつめてきた思い出や、やがて離れてく未来をもっていた。 彼は返事もしないし土方を見もしなかったが、ワゴンの窓から垂らしていた腕で、土方の頭へ手を伸ばし、ぽん、と置いた。 短く触れたそれに、土方はまるで泣きそうな瞳の光の膜をはって、彼の横顔をみつめていた。
「・・・先生、ちゃんと帰ってくんのかな」
「うーん、あいつならこなくてもちょっと不思議じゃない。そしたら、お前、本当に泣いちゃいそ」
ワゴンを見送った後で、正直にそう言う。
だって、都会はたぶん車の通行も多くて、店の看板がたくさんあって、人混みのかたまりが大きな横断歩道を渡って、 そこに戻っているあいだはこんなところのことなんて忘れるのかもしれない。 そうやって、彼の存在というものは、お前を傷つけていくだけのものなのかもしれない。
けっこう真面目にそう言った俺に、「そうだな」、と土方が素直に答えて、俺は振り返る。
それでも、土方のその姿は、まだ未熟な全身の肌に夕方の陽射しを受け、波がいくつも生みだすかがやきにのまれそうで、 ああ今年の季節はなんて痛いくらいにまぶしい夏なんだろうと思った。
海はよけいな考え事をさらっていく。帰って行く観光客たちの楽しそうな名残の声が空にぬけていく。 たくさんの人の気配がありながら、2人の時間は互いの間にだけ、長い影で並んでいる。 土方は潮風にほほをなでられながら、「ぎんとき」、と水平線を見つめたまま俺を呼んだ。そのくちびるの発音に、俺は夕陽がかかったまぶたをあげた。 あの雲の形みたいに柔らかくて、この海みたいに深いそれを聞いたとき、 俺は、俺が土方と一緒にいた意味を知ったような気がした。土方のななめ後ろからの耳やうなじの角度が、オレンジにはねかえる波のきらめきを映している。 それは光の加減で、ぴかぴかとした夕方の黄金をとじこめた写真みたいに見えた。
「俺、きっといつか先の同窓会とかで。この夏がすごく速くてきれいだったこと。お前にだけ話すのかもしれない」
「うん」
俺は色気を覚えた土方を視界におさめ、もう一度、うん、と言って、ゆっくり足を出した。 俺たちの足あとは、隣同士で後ろに残って、2人で歩いてきたぶんだけ続いていた。





後日談

そうして、拍子抜けするようにあっさりと、彼は3日で帰ってきた。
俺たちは、この夏最高、という波に乗っていて、ボードがけずるしぶきを浴び、お互いの肌にながれる水を太陽がゆるい光にかえていた。 とちゅうで振り切られてしまった時でさえ、海の中に投げ出されかけた手足が、青い宙に浮いて世界が一時停止したような気分だった。 空と海は境目でつながって、俺たちは地球の表面の断片に乗っかっている。乗り終わった波の向こうでただよっている土方が、したたる髪でこちらを振り返る。 俺はそれに向かって首をかたむけた。
「最近思うんだけど、ボードにまたがってるお前のその恰好って、なんかえろい」
股のあいだについている両手をじっと見た俺をそくざにはたいた土方と、はたかれた俺は、バランスを崩して同じ方向へ傾き、ぎゃーぎゃー言いながら海に落ちる。 音がこもってなくなったような海中から、ざばり同時に顔を出すまでの景色が、水色のスピードになって、2人のあらゆる髪先から光のしずくが舞う。 そのきらりとした中に、ちいさな銀色を見たのだ。海面の向こうの、浜辺のまた向こうの、灰色のコンクリートで出来た低い堤防に立っているその姿からは、 こちらを見ているような遠い視線の空気を感じた。土方も気づいたらしく、ボードにつかまってそちらを見る。
「一回戻る?」
まぶたにはりついた髪の束をのけながら聞くと、
「・・・ううん。波、あるし」
土方はゆっくり笑って、沖の方へ瞳を戻した。この時間帯を逃すのは惜しかった俺も、その答えをあんがい意外には思わなかった。 結局俺たちはそうしてどこまでもこの海の子供なのだ。いくつもの波が俺たちを過ぎ、乗りこえ、昼飯時になって、さすがに空腹に耐えられなくなった頃、 俺たちは浜辺にあがった。足首と板をつなぐコードを外して土方の肩にかけてやり、「俺のも貸して」「わかってる、バカまだ歩くな」 と俺たちがボードを抱えたままもつれ合うようにして宿の前までくると、白いワゴンから彼が荷物をおろしていた。煙草の煙がふわりと風に流れて、眼鏡の奥の瞳が俺たちに向く。 それから、ここを知った後に都会からまたここへ帰ってきた彼は、ほんのすこしだけ、この街の光に目を細めた気がした。
そうして、
「君たちは、いつも、海でぬれてるね」
あきれたようなまぶたが伏せられ、くちびるがわずかに上がる。 俺は、つい土方と顔を見合わせる。『いつも』。 そういえば、俺たちの何がどういう風に彼の眼鏡に映ってきているのかなんて、その本当の心中を俺は知らないのだ。 思わず、ふ、と声を出し、
「それが俺たちの青春です先生」
と土方の肩に腕を回した手をあげ、これまでもそうしてきたように、前のめりに板を持って夏をかけぬける。 そんな俺たちを遠く見送る彼の煙がなびく後ろで、やがて終わる夏の波音がひびいていた青さを、俺は今でもわすれない。




『この港はいい所よ 朝陽がきれいなの 住みつく人もいるのよ ゆっくり休みなさい 疲れた羽根を癒すの』 強く儚い者たち/Cocco

2012.8.7.