・・・映画の音がする。
かわいた敷布団で寝返りをうつと、レモン色の光がじんわり瞳にゆれた。窓にかかったカーテンのすきまが、かすれたようにまぶしい、夕方だった。
あー。
(土方、さん。)
ゆっくり、生まれていく、煙と、目に満ちる西日。
土方のタバコがまばたきのあいだで一度水になって、じわとむすばれていく。窓辺の黒髪がちかちかと透けて、外にならぶ真っ白の墓石が海のよう。 タバコをくわえた土方の瞳は、白い封筒へおちていた。伏せられたまつ毛に、ぽつぽつと光のつぶがひっかかり、おれはすこし、水星を思い出す。
「んん、びっくりするくらい熟睡した・・・」
「子供みてェだったよ」
頬杖をついた土方が文字から目をあげ、また戻す。
「疲れてんですかねえ〜式の準備は続いたし」
「そりゃそうだろう」
「心底どうでもいいことで喧嘩しますからね」
「当日は泣くよ、あいつも」
くちびるが煙ごと笑い、まぶたの影に夕焼けが燃える。


「そうだな、土方さんがリンゴのことを『すっぱい』って言った時かな。おれは『まだ早かったですねえ』って。食欲と、 人並みの精神力が戻ってきたんだな。 左で食うのも一時間かからなくなった頃で、感動して涙ぐんでましたね」
「嘘つけよ」
「まあ、途方もなく永遠です、終わった時間は」
髪の毛をぼさっと散らせたまま起き上がると、新聞がよだれでくっついて落ちた。 床に脱ぎ捨てられた土方の紺色のシャツをまたぎ、映画の雑音をすぎる。 煙ににじんだ土方の気だるげな笑みがすこしだけ、おれを見て、窓をごうと通る風の方へ戻った。おれは、はだしでリンゴを剥きながら、彼の手になびく封筒をながめた。
土方の右手の指は、三本曲がらない。
仕事で二年間いた国のテロがニュースになった時、誰もが死んだと思っていた。もう二度とペンやタバコを握ることがないし、キーを打つこともないが、 泣きごと一つ言わず左手はたくましくなった。詳しく聞いたことないけれど。彼がなくしてきたものは、たぶんもっと別のところにあって、
花の色とか、眠り方とか。
生涯の愛を、おいてきた。
(そうだったなぁ。)
おれのここ数年の歴史は、傍観するこの男のそういったかなしみにあり、それが乾いていくスピードにじっとしていた。 何日も不眠だったこの人の、寝息を見守れるようになるには、時間と(互いの)根性がひつようだった。 まあ今や、なんでもない一日はまた、半分をすぎ、今度俺は結婚するが。
棚や、時間や、そこをまわる遅れがちの針が、部屋の影になってのびている。たくさんの眠剤が、ビンのなかでしずかに光っていた。 向こうの煙突からずっと続くパイプに、何枚ものシーツがひるがえる。そのひとつが引っ張られるようにゆがんで、隣人が取り込んだ。
するするつながる皮、
どこかで鐘が鳴っている。
あぁ、バカみたいに晴れた日だ。

「土方さんってば。それ俺がわざわざ郵便で出した招待状」
「そうだな」
「何ていうか、もっとていねいに」
あおむけに転がると、土方の前髪が重力にそって、おれの額にあたる直前で止まった。
「うるせーな」
その手にはさまれた招待状は、おれの相手がつくった動物の型で抜かれている。
「イルカのなにが好きなんだ女は」
「まぬけでしあわせじゃないですか〜・・・」
灰皿のなかで、火が終わる。同時に、おれの言葉にまばたきをした土方の目が、封筒の宛名に書かれた自分の名前をみてから、とうめいのガラスへ動いた。 おれの上で、ちゃんと伸びた首筋が、鳥の軌道へ向かっていた。
ふいに緑のにおいがした。
目をあげると、こぼれるような今朝の雨の終わりが、土方の後ろでむせかえるほどしっかり、広がっていた。 彼が夢をわすれた夜の数が、大気になって光っていた。
あ。
と思ったら、この感情にそんなに理由はない。ただ誰のためでもなく、この夕方のやさしさのために泣いてあげたい、と思った。
「抱くか」
窓から視線をもどすと、土方の瞳がすぐそこで、おれをみおろしていた。
朝が沈み冬がすぎた海の瞳。
・・・錆びついてきたなかの、真っすぐ強い、かたちだな。 思わず、つられるように鼻声で笑った。
「銀髪の人はどうなったんです」
「あぁ、あいつはいずれちがう誰かを作ってくだろうし、それが正しいさ」
土方のくちびるがふせた笑みをつくって、当たり前のようにおれから離れた。
「今日着るものを竿からとらないで、吸殻をためないように、ゴミもですよ」
「本当にうるせえな」
一度振り返ると、土方は吐いた煙をのこしながら立ち上がった。
指が、カーテンを引く。
さあと一気に夕陽にそまったその後ろ姿が、息をわすれるような金色にぬれた。おれはきゅうと細めた目のあいだに、時間が焦げたような太陽のあとをみた。
赤ん坊の泣き声がひびいている気がした。
それはいつも幻だった。
出口は、幾千もの空におおわれ、季節にとじこめられている。世界は、誰かがぎゅっと握りつぶしてくれる体温をいつまでも待っていた。 仕方がなくて、この場所は目を閉じ、夢をみる。ゆるゆると彼をかきまぜながら、淡いしずくになってゆく。 いつかの雨になって、未来の地面へ降りそそぐ。立ち並ぶ墓の、石と石のあいだにしみこみ、やがて太陽の温度で消えたら、かなしみは。
甘い空にのぼって、
また、
くり返す。

「俺もお前も、もう行かなきゃならねえが」
カチャ、と土方がそのままベランダの鍵をおろした。
「忘れものはなかったか」
「あんたですって言ってもいいんですか」
「ふふ。やだよ」
それを聞くおれの息も、とうにやわらかい。開いた窓に寄りかかった土方の傷跡がぶらさがり、口元からタバコの白がなびいてく。 横顔の瞳がまぶしく、封筒の口が波打つように音をたてていた。
「言っとくけど、まあ、おめでとう。冷蔵庫をなんども開け閉めするなとか。口うるさくして嫌われるなよ」
一瞬、ぎゅっと音がするほど、おれのまぶたがその姿を、閉じこめる。 どうあがいても人間でいるあなたのまわりで。暮れゆくさみしさが、輪になってきれい。そこをただよう低い笑い声が、
「何がおかしいんですか。あの人のスーツも選んで着せてきて下さいよ」
目の前で、
赤く、なっていく。
夕陽の国が、焼けていく。


end.



土方のハンカチがはみだしていたので、指でめくったポケットのうちがわにしまいこんで叩いてやったら、ふう、とその前髪が落ちた。 鏡にうつる、自分のタキシード姿を横目でみたそいつが「坂田よ」、と言う。
「俺、バカみたいじゃないか」
「そうだね」
(土方は服装のことを言っている。)
ジャーと流れる水が、土方の指をつたってく。シンクに腰をあずけた俺は、すこし屈んでゆれる黒髪の気配と、絹のハンカチにできるしみを、白い光越しにみていた。
「一度、三日寝てなかったときに。山崎がケータイが見つからねえから、かけてくれって」
「度胸あるわ」
「そしたら、俺からの着信音がCharaのやさしい気持ちだったときの衝撃よ」
「怖いもんなしかあいつ」
「俺のいねえ所で俺の電話をそれで取ってんのかと、えんえん夢で回ったよ」
去年まで、と土方の黒い裾が、トイレから外の明るさへすりぬける。そうか、と返したとき、ドアの角に残った土方のくちびるが古い笑みの形をした。 いつまでも先輩後輩で。関係性の変化やステップとかが。この2人には必要ない、ということを、俺は今日までどこかなめていた。
続いて廊下へ踏み出し、「それって何かの主題歌だった?」とふと顔をあげる。
「やまとなでしことかの」
「あれは『Everything』だよ」
「うわぁ入場曲だったらどうすんだよ」
「拍手をしてろ」
俺は今夜こいつとするだろうセックスをぼんやり考え、か、か、と響いて右手を運んでく土方の、前日にきちんとみがかれた靴がすこし好きだとおもった。 伸びをしていた腕をおろし、その背中を見送る。泣けない女のやさしいきもちをあなたがたくさん知るのよ・・・ かつて山崎のえらんだ音楽が土方の足音ひとつひとつにちいさくとけ、まばゆさに消えていくから、いつだってすこしの未来は、のこって、ゆくのだ。