ケーキを捨てようと思ったのだ。私は終始無言で一切何もしゃべらず、キッチンで卵白と砂糖を一心不乱にかき混ぜた。 落ちてくる髪の毛も避けずに、生クリームも泡立てたし、スポンジを焼きあげた。 目の前のこれこそが前世からの敵であるみたいに、ゴムベラでひたすらクリームを塗りたくった。 土方は、 「・・・あぁ、よかった、ケーキか」 と、彼らの家に押しかけるなり制服を腕まくりして本気を出している私の包丁を、そう言ってのぞいたきり教科書に赤線を引いていた。 「・・・何か、高校ん時に観た『悪魔のいけにえ』思い出したな」 と静かなつぶやきが聞こえる。 「土方先生のテスト範囲どこでしたっけ。・・・うっわ、銀八の落書き」 洗濯物をとりに立ち上がった土方の代わりに教科書へ頭を傾けた全蔵が、私の振り上げた包丁を見て、顔を戻し、もう一度見た。 それからキッチン台をのぞき、「よかった、ケーキか」と通りすぎた。 「こないだ、隣のよねださん宛てのガス代入ってたじゃないすか、米に田んぼの田で米田さん、あれ、よねださんじゃなくて、こめださんらしいよ」 とか何とか言う全蔵の手が、郵便物とチラシを分けていく。 (これは婚期を逃した男どもだ。わざとにしろ、無意識にしろ、私や世間のレッテルはそうだ。 職場の余り者同士で妥協したんだと思ってたら、同僚の勘違いでくっつけられたと言ってたのは土方だ。 全蔵が「こんな時間にうるせーんだよお前は」とたぶんその同僚に言う口調。 夜中に迷惑電話をかけてくるその人に比べて常識的な大人同士の二人の背広は、どちらもきちんとかかっていて、私をすこし納得させる。) 私は結んだ口で全く会話に参加せず、スポンジを真っ二つにわった。 そしていざ苺を切ろうって時に、ふと自分の、熟した果物みたいに指で押したらずぐずぐと中身に入っていくような、 一番弱くてやわらかくてなまなましい部分に刃が入ってきて、手を止めた。白く汚れた髪の毛が初めて視界に入った。それをつまんだ先に、 今日出した退部届のプリントが浮かぶ。・・・する、とクリームをひっぱった指で意地のように苺のヘタをちぎった。 とてつもない女子とはいるものだ。 先輩のその人の指揮で、私は体操部でちょっとした仲間外れにされていて、むしろそれを愉快におもっていた。 嫌われるのは美人の宿命だし、いやがられるに値するだけの光を私は持っていた。 仕方ない。 誰の視界のどんな隅っこにいても、私だとわかってねじりたくなるようなオーラが私にはあるのだ。 自分で言うのも何だが、私はそれを誘発する個性を持っている。 彼女の根性と情熱の曲がり方をある意味尊敬すらしていたし、そういう人はそういう人で抱えるものがあることは、 私も、知っている。 だから、仕方ない、本当に。 平気。・・・べつに。 あーいーじーわーるーと帰りの電車の中で俯き、思いきり足をバタバタさせるくらいだ。 大会には一回も出場させてもらえなかった。私には素質があった、それが誰より美しかった。 でも、元々小学校からずっとやってきた延長で、 高校生になってから真剣になんて取り組んでなかったし。 これからは自由の時間が生まれるのだと思うと空はまあまあきれいだし。 半分にした苺を並べる。それが全部きれいにできあがり「天才、バレンタインとか来たらどうすんの私ヤバいんじゃないの」とテンション高く一通り写メを撮ったら、 ・・・はあ、となんだかぜんぶ、ヤんなった。 元々ケーキは最後盛大に投げつけるために作ったのだが、 その時またいだ今時ビデオテープのシールの名前が、あコレ最近すんごく人気になった女優じゃん、と気づいてそれもシリーズごと一緒に捨てることにした。 私はそういう自分が好きだ。一生懸命だいじにみたドラマや、せっかく時間をかけて作ったケーキを平気で捨てちゃう。 「おい、そのビデオどこ持ってくんだ、おい、おい!」 と、全蔵の声が玄関のドアが閉まる直前に聞こえていたけど気にしない。私には私の道理があるのでごめんなすって。 箱に入れたケーキの上に積んだテープのてっぺんを顎で支えながら、ガニ股で廊下に出た。 アルファベットで作られた表札がかかった他人の玄関が残像になる。 いつか似たようなものを横切った時、 「アンタらもこんなのにすれば住人の好感度上がるわよ」と言ったら、「そうかなあ、俺たちの幸福っぽさってアホみてえだよ」と答えた全蔵の言葉が浮かんだ。 道路を渡る間、つめたいビル風に制服のスカートがめくれ続けた。後で文句を言われてもなんなので、 一つ先のゴミ捨て場まで歩く。車の音が後ろから背後の感覚を襲って、過ぎていく。 レンタル屋の前が明るい。横側だけ照らされている若者たちがメットを外してはじかれるように背中をしならせ笑っていた。 赤や黄色のライトがすいこまれていく暗闇が、濡れたみたいにつややかだった。 灰色のコンクリートで囲まれたゴミ捨て場に着くと、誰が捨てたのかその横に子供用みたいな小さめのベッドが置いてあった。 全力の集中力を発揮したせいで、その上にどさり倒れて寝転んだ。 すこしたまっていたらしい水が嫌な感触で制服にしみこむ。テープがゴツと体の上や地面に散らばった。スカートからはみ出た太ももがざりざりといって、髪も汚れたのがわかった。 最悪だ。気持ちいい。 私はそのまま、上を見た。・・・ああ今日はこういう夜か、と、首を反った。 暗闇が青い時があるのだ。 あたりは暗いがなにかが青い。 人混みのざわめきや足音が一度はるか彼方の夜空になって、遠い距離の、ことまでわかる。 街のぜんぶが空気でつながっているのが頭上の星空によく見える。他人の携帯電話の会話や、車や、どこかで窓が閉まる音が、いくつもの柱みたいにのぼってる。 その先に 「・・・ドアみたいなのが、あるのよね」 そのドアはたまに開いて、そちらの世界がこちら側へとほんのすこしだけ滲み出す。そっちとこっちのはしとはしが混じりあって青いのだ。 はざ間に目をこらしてみても決して向こう側の全貌は見えはしない。 あの世ではないし異次元でもたぶんない。 今誰かが自分のことについて考えてることに気づく勘、運命の人の正体、とうに忘れた居間の隅の電話帳、二度と思い出せない曲の名前、水素の仕組み、 なんかがある所でそんなにたいした世界じゃない。 けれど、そういうものが、ある。 そういうものがあるから、宇宙や人生はまわってる。 それを知らずに生きてる同じ高校生たちを私は心底バカだと思ってる。 一度吐き捨てるようにそう言ったら、「いいね。若い」と全蔵が野菜を切って笑っていた。 学校が離れてるから知りゃしないけど、全蔵と土方は、生徒にあんまり干渉しない教師だと思ってる。 それでもなんかおかしい、と私を探しに出たらしい彼らがこっちを見つけたのは、むくり起き上がり、ケーキを振りかぶった時だった。 二人の姿に構わず、思いきり投げた白いケーキが弧を描いた。 手から離れる時の重心通りに、ゴミ捨て場の宙を舞った。指が角に引っかかったのかすこし回っていた。 それが目の前の夜にぐしゃっとはりつき、ゴミ捨て場の壁をすべり落ち出したころ、 「・・・うわ!」 と、はじかれたように慌てて走ってきた二人に取り押さえられそうになったので、生娘のように叫び声を出すと男どもは怯んだ。 その隙に、ベッドから降りて両手を払った。 二人が口を開けて、人様のゴミ捨て場の壁を見る。 「・・・ああー」 と土方の間抜けな悲壮感が声になって漂い、 「何やってんだお前・・・」 「食い物は粗末にするもんじゃねーんだよ」 「服部先生、俺の腐れ縁のこと言えませんよコレ」 「つーかお前何でうちにいんだ?」 口ぐちにそう言う二人にはさまれ、「うちじゃできないもんだから」とだけ答えてスカートで手をぬぐった。 「・・・芸人がテレビでよく投げてるパイって、あれ本物のクリームかな」、 とゴミ袋を持った土方が言い、全蔵が雑巾ごと振り向いた。 「違うでしょ」「でも口に入るでしょ」「でもクリームだったらあんなにきれいにいつまでも顔にはりついてないでしょ」 という二人の会話に、「バっカじゃないの」とべたべたのタオルを土方の袋に突っ込む。 誰も見てなかったのに、人のクリームをきっちりぬぐって汚れた二人は、なんというか、人間なんだな、と思った。 無残な姿になったケーキを片付けて帰った後、「もう銭湯が早い」と彼らのどちらかが言った。 「じゃあお前に洗面器をやろう」と土方が出したそれに全蔵が3人分の手ぬぐいと石鹸と小さなシャンプーボトルを入れタオルで蓋した。 「・・・ただの荷物持ちじゃない?」と聞いた私を二人とも無視した。 今度は三人でアルファベットの表札を過ぎ、 「俺たちもああいうのにすれば何か違うかね」、一階のボタンを押して土方が言う。 「まずどこに売ってんの?」 「わかんないコーナンとか」 「ねえ俺がそんな理由で休日にそれ作ってるとこ想像してみて下さいよ」 「うーん、アホみてえ」 ウーウーン、と密閉されたエレベーターの二人の真ん中で、私はバカみたいだった。 「110円〜!って叫ばれるのはご免だからジュース代渡しとくよ」 「何歳の頃の話してんのよ」 全蔵からバスタオルをひったくり、女湯の戸を開けた。番台のおばちゃん越しに二人が見えて、「そこの女子高生と3人分」という土方の声が視界の後ろに残った。 脱衣所で服を脱いで、まっ裸になった。髪をまとめようと頭を下げると、柔らかそうな自分の乳房や太ももが目に入った。ロッカーからはみ出たスカートを、肘で押しこむ。 ときどき、はちきれそうにひりひりとしたこの若さが肉体から破裂して、そこからあふれ返った血ですこしくらいの世界は変えられる気がしてる。 同い年で活躍するシンガーソングライターなんかはそうだ。 私の中でも悪魔的なエネルギーがぶるぶると今にも皮膚をつきやぶってきそうにしているのに、私にはそれが出来ないのだ。 学校なんてせまい生活圏ですら、たかが他人との関係性のせいでやるだけやってみることもままならない。いつ悟ったんだったかなあ。 「ねえ、そういやあんた達、裸なんか一緒に見て大丈夫なの?」 シャンプーで髪を泡だてながら目をつむったまま、ふと背中の壁を振り返ると返事がない。 「ねえ?! 裸を一緒に見て?!」 「うるさいよ!」 「大丈夫なの?!」 「大丈夫だよ! 意識させんなバカか! ・・・あれ土方先生?」 全蔵のセックスなんて想像するのも最悪だけど、してる時も先生呼びなのかしら、あの全蔵があのイケメン相手にたつのかしら、 髪洗ってる時って何でこうもどうでもいいこと考えるのかしら あつい湯に顎までつかって、ぶく、とひとつ泡を出した。 「私、ドライヤーするから先行ってて!」と言ったのに、二人の間でどういう会話があったのか、外で土方だけが待っていた。 風呂上がりの肌で、黒髪がまだ濡れていた。 しずかに、タバコをくわえていた。 私は、フルーツ牛乳のつめたさがうつった指を髪の間にとおした。彼にまぶたを上げ、また青暗い空へ戻す。 「ねえ、私今日退部したの。あんたがいつか言ってた部活の話、して」 土方の息が聞こえる。吐き出された白い煙の名残が、夜空の手前をかすめた。 「・・・高二ん時、友達が原付で事故った。その知らせを受けた時、俺は潰れかけのカレー屋にいて、次の日は大会だった。一番注目されていたし、 優勝候補だった」 「うん」 「病院には行かなかった」 「何で」 「試合を優先した」 「でも負けたんでしょ」 「そうだよ」 銭湯の壁から背を離した私は、歩き出す土方の背中について、後ろを歩いた。 見舞いに行く行かないなんて形にすることより大切なものは、あのドアの向こうにあるものだからと知っている。 けれど結局、最後は、私が切った苺の果肉みたいに、人間の、弱くてやわらかくてなまなましい部分にひっかかって、 大事な試合で横転したりする。二度と復帰、できなくなったりする。けど、土方はその時のことを悔んだりしていない。 ・・・あんたはいいわよね。大人だし。私はいま、やめたばっかよ。 目の前の足音を聞きながら、だんだん自分の靴先へとうつむく。ふいにふるえかけるくちびるを噛んで、・・・すん、と一度鼻をすすった。 くやしいと。本当は、すっごく、くやしい、と。そう一言口にできない私の手の中で、ちいさな洗面器がゆれている。 0時が過ぎて、リビングで借りていた布団から起き上がった。 寝室をのぞく。 土方はすでに敷き布団で寝ていて、私は全蔵を探しにいこうかとフローリングの上を一周うろうろした後、土方の前でひざを抱えてしゃがんだ。 「寝れないのよ」 「・・・・・・」 土方はすこしだけしかめた薄目を開けて、うつらと閉じ、再び開けた。 布団が二カ所ほど盛り上がったりへこんだりして、土方の頭と膨らみがずれる。 私はスウェットのゴムをひきあげてから、そこに入りこんだ。 意識がまた落ちたのか、土方はおそらくこちらを向いていてまぶたが閉まっていた。暗がりの中でしばらくじっとしていた私は、結局ぼんやり土方の方を向いて丸まった。 本当なら、好きな人と寝息の聞こえる距離でいたい。 夜の毛布に額をくっつけたら、急にこみあげてきそうになるものを寸での喉で閉じた。 泣きそうになったまぶたを我慢した。30秒ほどそうして、ゆっくり布団をかぶる。 たぶん。昔からよく知っているからこそ全蔵の前では、見せられない。それをわかっていて、淡泊に、何も言わずに、今いない。 考えながら、黒い前髪を見て、ふと口を開く。「・・・もしかして。全蔵にはあんたが先に手ェ出したの? どう? 違うの?」、 毛布に顔をはんぶん埋めて聞くと、土方は「うん」と言った。「何のうん、よ? どっちなのよ?」と鼻声で問い詰めている内に、体温が布団にとけていた。 彼らのそれは質素でひらべったいが、なんとなく肌触りがよかった。そのあいだにはさまれた体のなかを、銭湯でめぐったあったかい血が通っている。 涙で濡れた目を閉じたら、夜の向こうにいつもの明日がくる、気配がした。 ← |