海になんて行かない


カ、と照る太陽の光がサイドミラーに反射した。(げえ) 山崎は思わず二日酔いの目に凶器として刺さってくるそれをまぶたで遮り、ゆるくこする。 ぱちぱちとまばたきをしている隣では椅子の背をすこし倒した土方が、腕を組んで全く進まない窓の外を見ていた。
「今朝よー、カーテンに蜘蛛がぶらさがってたんだけど」
「あー・・・あそこら辺掃除してないですからね」
「朝の蜘蛛は殺しちゃいけねェって何でだろな」
「一日分の運でも乗せてるんでしょ」
「そうか・・・何でもないとこでポールに車ぶつけちまう虚脱感はそういう分かれ目からきてるのか」
がんがんする頭のせいで適当に答えた返事に、気だるそうに納得した様子の土方もたいがい二日酔いだ。 先ほどから全然前が見えない車の列は、今日だけ安いガソリンスタンドへ向かうものである。 歩道では店員が『ご迷惑おかけしております。ハザード点灯お願いします』という看板を両手で掲げていて、自分たちの番が回ってくる気配は一向にない。 こんな晴れた5連休にみんな何やってんだ、海に遠出しろ、と自分たちのことは棚に上げてる土方の声と、カッチカッチ、出しっぱなしのウィンカーの音を聞きながら山崎は、 ううー、と額をハンドルにつけた。
この連休中に自分たちがしたことといえば、麻雀か競馬予想か半年ぶりのセックスくらいだ。 一昨日は仕事が終わってから共通の友人たちとすぐビールを開け、朝まで麻雀をした。 それから競馬新聞を広げ、「いやこいつは案外やる」「俺は手堅く後藤ですけどねえ」と雑な赤丸で、G1レースをいくつか囲った。 その後、パルプ・フィクションを観ながら、だらだら二人で飲み直す。昼過ぎになっていよいよ目の据わってきた土方が、 「この体位してみてェんだけど」とか何とか言い出したので、それに付き合わされた山崎は未だに両腕の内側が筋肉痛だ。
「だいたいてめェが、あそこでイーピン切ったのが悪ィんだよ。あっさりロンされやがって・・・」
「勝負に出たんですよ」
「んな柄にねェことすっから、あいつがトップになっただろうが」
ゴス、と肘で体を突かれて、足裏がブレーキから離れた。「あっ」「ぶね」 キィィ、と狭い車間で急ブレーキする。 がっくん、お互い前のめりになった体を戻しながら、・・・はー、と前の車を見つめた。
「あのBM絶対、何やってんだ後ろのカローラバンとか思ってんだろな」
「思ってますね、ぶつけてやりましょうか」
「これ以上、ヘコみ増やすなよ。ライトで嫌がらせしよう」
土方がこちらへ手を伸ばしてきて、ビッカビッカとヘッドライトをつけたり消したりした。 やがて、パッパと、前の赤いBMWから非難のようなクラクションが返ってきて、土方と低く笑いながら椅子の背に戻った。 そうして窓に頬杖をついた土方が、片手でおっさんくさくシャツの中の腹をかきながら、あ、と手を止める。
「どうしたんですか」
「いや、てめーの精液」
べろ、とめくって見せられた乾いたそれに今更恥ずかしくなるような純情さを山崎はもう持ち合わせていない。 土方とは24の時に会社で出会って、もう8年の付き合いになる。だけど、土方のくちびるが、せいえき、と動く様子に山崎の瞳はひどくぼうとした。 渋みの増した目元はおかげで若い頃と比べてもう一段階別の色気に登っているから男前は手に負えない。 すう、とすこしだけまぶたを細めて土方に視線を送る。
「アンタがあんな変な体位したがるから」
「よかったろ」
「よかったっつうか、疲れましたよ。すごい張ってるんですけど腕」
「不甲斐ねーなァ・・・鍛えろよ」
雰囲気に逆らわずやけに低い声で言いながら土方がこちらへ身を乗り出し、傾けたくちびるを寄せる。 俺はハンドルを握ったまま、顔を横に向けて開いた口でそれを受けた。どうでもいいけど、酒臭い。 おっさん同士が快晴の連休最後の車ん中でいったい何やってんだか、離れていく土方の舌をまぶたの下で見ながら、ああ日常だなあとぼんやり思う。 最後に舌の表面を舐められ、自分もそれをすこし追いかけた。おいBM曲がりやがったぞ、遅れをとんな、と言う土方の声でそれは自然と解かれ、 やっとガソリンスタンド内へと左折する。
「前から思ってたけど、お前五千と千円くらい分けてろよ」
自分の財布から札を取り出している土方が文句を言いながら、機械に入れている。満タンになったカローラバンで帰りは土方が運転席に座り、 彼はすこし空いている道路の3車線を使って遊んだ。真ん中を走ったかと思うと右に行き、そのままキュルキュルとタイヤを滑らせながら一番左へ移る。
「ちょ、BM、BM、ぎゃあ! 当たりますって!」
「さっきのBMかコレ?」
ハンドルに胸をつけてのぞきこむ土方の隣で、手すりにしがみついていた山崎はさっき土方がしたように横から手を伸ばしてライトを点滅させてみた。 同じように、向こうがパッパとクラクションで答える。
「ッあー・・・頭痛ェ・・」
「はしゃぎすぎですよ。ほんと、車に乗ると子供みたいなんだから」
「妻かお前は」
5連休最後の休日は、二日酔いのまま延々行列に並んで安いガソリン入れただけで夜は寿司とって終わりだ。 あれから蕎麦屋に寄って帰ってきた部屋は、ビールの空き缶がいくつも転がり、灰皿が雪崩をおこしていた。 麻雀の牌は出っぱなしだし、競馬新聞はセックスの際土方の体に敷かれていたせいでぐしゃぐしゃになっている。 そんな汚い部屋の真ん中でタバコの箱をとるため座り込んだ土方がいる景色は、いつもと本当に変わらない。 よく見てみればシャツがめくれた彼の背中には、新聞につけた赤丸がそのままうつっていて、ぶふ、と思わず一人で笑い、後ろからちょんと抱きついてみた。
「・・・何だよ」
土方の肩から顔を出して首筋に鼻を埋める。
「急に愛しくなったんです。8年たっても、こういうのってあるんですね」
「元気だなお前。またあの体位すんのか?」
「いや、するなら普通にしましょうよ・・・」
ガンガン痛い頭を土方の背中に押し付けて、はァ、と息を吐き出した。 非生産的すぎる連休、つい忘れそうになるけれど、そこに土方がいることが当たり前であるなんて、 まあ、たまには体位なんて口に出すのもためらわれた初々しい頃に戻りたいと願わなくもないが、とりあえずは時々こうしてかみしめる俺たちの日常なんてもの。