『Drops of Jupiter』を聞いてたので 2011.12.10
トリップ・ガール
さあ、彼女がこの世に帰ってきた。うちの客であるその女性のために、僕は休みも取らずにコーヒーワゴンを開けていたので、ずいぶんと待ちくたびれた。
「中でも、土星が一番きれいだったの」
「何で?」
「知らない。大方、輪っかのせい」
その水素をひっかけてきたのか、彼女の髪先はゆれる度にぱらぱらと光った。 ワゴンを出している雑踏は、会社の昼休み時で、人の足音がざわざわしていた。 「キャラメルあげる」、とポケットから手を出す彼女が、立ったまま組み替えるパンプスの音はビー玉みたい。 それから彼女はスーツの中に両手ともしまって、梅雨のように長いまばたきを、した。
「大人の女性になったね」
「どうだろう。猫舌は変わってないよ」
彼女はコーヒーの上に浮かぶマシュマロを観察した。僕は自分の分に、今頂いたキャラメルを入れた。
いつも仕事の合間にうちでカフェラテを拾っていく彼女が来ないと思ったら、オーバードースをやらかし、この世界から旅立っていたらしい。 僕はその道中を思い描いてみた。 ボートが趣味の彼女は、星が散らばる河のどこに子供のころ歌ったきらきら星があるかを探して熱中する。 縁に腰かけ、巨大なヘリウムのかたまりをスケッチする。 それから、水面に浸したつま先をかき混ぜつつ、大気圏にジョン・レノンの影を見ながら、遠くまで来てしまったことを洒脱に思う。 生きている人間が探してやまないその場所で、彷徨うに十分の広さを、あるいは、見つけたかもしれない。
「そう、そんで一応は、天国の有無を考えてたの」
僕は無神論者だ。キャラメルが全然溶けない様子をおとなしく見守る。
「ソレ、単にそこのソニープラザで買ってきたヤツだよ」
「家に帰ってきてどうしてる」
「別にふつう。去年のブーツを出して、グラタンに茄子入れた」
カップに口をつけた彼女は、人波を眺めた。 彼女のふつうはとても貴重だ。何せ、彼女がまた毎日につまらなくなるのは実に簡単だった。 レシートの裏にメモした自分の「ル」の字が癪だと、もうダメだ。 言おうとした四字熟語が思い出せなかったら、一日はイヤになる。反対に、 美容師がカットを失敗しようが、野球中継が長引こうが気にしない彼女の気分には元から他人の余地がないので、僕にできることは、まあ、ない。
「3週間いたけど、時間はあんまり意味なかったな。だって、そこは全部ただの概念でできてたの。そこは、そういう、 あたしが知りたかった全てがあるトコなんだと思う。おおむね、そういうトコだと思う」
「なるほど」
「でも、無いものも結構あったよ」
彼女は淡泊に、首をひねった。
お祭りのりんご飴とか、休日とか、お風呂でうたた寝する0時とか、 永久保存したいゴッド・ファーザーのワンシーンとか。恋愛の行方とか、秋の雨とか、 おととし失くしたピアスの片っぽとか、ショパンの曲とか、ここのコーヒーとか。
「無くて困った?」
「わかんない。けど、死ぬのはやめることにしたの。時間だよ」
ようやくカップの中身をすすりつつ人混みに戻っていく彼女は、あっさりいつもの景色に溶けていく。 (帰ってきたのなら、それでいいか。) その背中を見送り終わって、僕はコーヒーに沈んだキャラメルの姿をしばらく探した。
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