誰もいない





朝、家から出勤してきて門をくぐると、窓から黒髪の生徒がぶらさがっていた。

「・・・・」

白い校舎をバックにポツンと浮かんだ黒い学ランは、よく目立った。
ちょうどてるてる坊主のような具合で、腰にロープを巻いて、ぶらんぶらん揺れていた。
バンジー後の人みたいに、なっていた。

早朝早々、疑問である。

ジャングルでもあるまいし、朝っぱらから、彼は、何をしているのか。
ちょっと、あまりない光景だ。サーカスではあっても、学校ではない。
コント以外でこのような場面に出くわすのは人生初めてだ。

正直いって新参者教師の坂田にはどういうリアクションをしたらいいのかわからないので、ちら、と周りを伺ってみた。
みんな普通である。
今日のテストや昨日のテレビについて話をしながら、のん気に玄関口に向かっている。
目の前で理解からほど遠い景色が広げられているというのに、あたりはごくごく月曜の気だるい朝である。
常識から考えれば、抜き打ち英単テストが行われてしまうらしいことよりずっと警戒すべき事態であるはずだったが、 ぶらさがっている男が土方であるということが、どうやら、みんなの危機感をないものにさせていた。
土方は何かわめいているようだったが、何を言っているのか理解できないので誰からも無視された。
「・・・あのさ、あれ、助けたりしなくていいの」
近くの生徒を捕まえて聞いてみても、鼻で笑われただけである。
別に普通だよ、という。
そうか、普通か。お前たちはアレを普通として毎日を生きているのか。なんて青春だ。
薄情で平和な登校風景を足元に、3階からつるされている土方は、下半身だけでけなげにバタバタもがいている。
その頭上で開いた窓に腰かけている男子生徒が、ハサミを握っているのが見えた。

「早く、許してくださいご主人様っていわねェと、もうそろそろ手がすべりそうですぜ」
「んー! んんー!」
「え、なに、好き?」
「んんー!」
「快感ですもっとやってください?」
「んんんんーー!」
「はい、5−4−3−」

土方は信じられないといったように動きを止めて、秒読みを開始している彼の方へ頭を持ち上げた。
坂田も、 まさか、と思う。
思うが、あの童顔男子生徒には、やるったらやる、という雰囲気が伺える。むしろ、やる、といった空気が伺える。
つい、一緒に目をむいて見上げる。
太陽の光を受けて、刃がギラリ鋭く光った。
それがロープを切断する直前(ほんとに切断するのだから容赦ない)、 土方は揺れる体に反動をつけて、近くの窓へ体当たりで割って入った。 ガッシャーン、と派手な音がする。 すごい反射神経と運動神経である。これまた映画のアクションシーン以外でお目にかかったことがない。
いったいここはどこだ。 学校ではなかったか。状況が状況でさえなければ拍手喝采ものである。

すこししてから、地獄へ落ちろォォ、とそれこそが地獄の底からであるみたいな土方の声がチャイムに混じって大きく響いた。

坂田はぱらぱら降ってきたガラスをはらいながら、ジャッキー・チェンはスタントなしですべての演技をこなす、という素晴らしい話を 、まったくわけのわからないままぼんやり突っ立って、思い出していた。


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