坂田はまず山崎に電話をした。
土方は電車に乗る金も車も持っていない。だけど、あの家なら徒歩で行ける。
ポケットに入っていた紙切れ。
そこに並んだ数字を親指で携帯に打ち込み、最後のナンバーを押す前に一度息を吸い込んだ。
「あー・・・坂田だけど。土方と一緒にいた」
「ああ、はい」
たぶん知らない番号を少々けげんに思っていた声が思い出すように返事する。坂田は言いにくそうに髪をかいた。
「その、さあ・・・・土方、そっち、いる?」
「何したんですか」
言われるだろうと思ってたことが、一番にきた。
しかも、間髪入らない。責める声。
痛い。
「・・・・いるの、いないの」
通話口の向こうで、すごいため息と物音が聞こえる。
「来てませんよ、うちには」
「嘘じゃ・・・ないよな」
「ついてません」
まァ、そんな声だ。器用に怒ってると同時に焦ってる。聞こえてくる声以外の音は、きっと、今からすぐにでも探しに行こうと準備しているそれだ。
土方の行きそうな場所を聞こうとして、やめた。
無駄な気がした。
他に何も言えなくて黙る。それでも、向こうは一方的に切ってきたりはしなかった。
そんなすこしの間の後、雑音を引いて、山崎がため息の後で、ゆっくり口を開いた。
「ねえ、坂田さん。物事って、たった1つの事実に見えて、すこし見る角度を変えればぜんぜん違ったりするでしょう。光と影が同時にしか存在できないみたいに、 土方さんのあの強さは、同時に弱みでもあるんですよ。そういうの、わかる人ですか」
「・・・わかるよ」
はー、と息をついてから、そう答えた。よく、わかる。山崎がどれだけ土方をみてきたのか、土方が何故こいつとは切れずにいるのかも、すごく、わかる。
携帯を置いて、鼻から息を吐く。
あとは、高杉だ。
「おい、高杉」
自分の部屋から出て、風呂場をのぞくと電気が消えていた。え?と思う。リビングにもいない。高杉の部屋にも見当たらなかった。 出てったのか。電話に夢中で玄関の音が聞こえなかった。
煙草でも買いに? それとも。
・・・・まさか、土方を探しに?
あいつが?



ブオンン・・・
暗い夜道をライトを光らせて、車が通り過ぎていく。
何かに向かって、歩いてるわけじゃない。曲がる角も選ばない。
けど、高杉には予感があった。しんとしたそれが頭の中で広がっている。
自分は、絶対土方と出会う。
「・・・・・・」
ベンチの影が黒ずんでいる公園にすこし目をやった。
ここに子猫を埋めたらしい。
高杉は、自分よりなにかを大切にしたい、という感情が持てない。昔から。土方に対してだって例外じゃない。
楽器屋で初めて見た時から、あの目は好きだ。
ただひたすらに何かに打ち込む、孤独を、知ってる。
それも、ひどく深くて、暗い孤独だ。
土方のそれは、自分の感性を呼び覚ます。
そこが気に入った。
初めて坂田が土方を抱いた日、高杉は自分に向けられた視線を知っていた。
あんな目をしてれば、嫌でも気づく。
今までならさっさとしているだろうところを、あの男が、よくあそこまで我慢したものだと思う。
坂田には、高杉をみてきたという自負がある。こんな面倒なヤツを、カワイイと思えるくらいの時を経る。
なかなか手を出さなかったのは、そんな自分が珍しく執着しているからだろうが、土方への思いやりの気持ちもある気がした。
自分には与えられないそんなところをあいつが埋めて、土方のあの空気を育てるのなら、それもいい。そう思ってる。

ただ、土方のその世界を邪魔されるのは気に入らない。

それは自分を刺激するものだ。何かを呼び戻すものだ。逆に自分のそんなところが土方を高めるのも知っている。
あの日、土方は一番透きとおるように音に集中していた。久々に手が動いた。 それが、急に甘えるように啼き出す。坂田とのセックスに惚けたような声をする。すこし、興ざめした。 浸っていた魂の世界を快楽で流されるような土方は、自分は蔑む。
坂田の受け入れ方が心地よいと思っているのは知ってる。だから、あいつのセックスが気持ちいい。
けれど、芸術の追求より優先すべきものなんかない。
土方が曲の世界に入り込もうとすると、それを思い出して苛々とした。 自分が他人に揺さぶられてる。機嫌は急降下だ。
影響される、というのは、よくも悪くもそういうことだ。
わかっているから、そんな相手は自分と同じだけの場所にいるべきだった。
セックスがしたいなら存分してやる。さっきは、気分に任せてそうした。
発散された今は、自分の絵を見た時の土方の瞳や、映画に刺激されてたことを思い返す余裕ができてる。
土方が坂田としようが誰としようが、高杉には関係ない。
ただ、お前がその世界にいる時だけは、そこを他人に崩されるな。
精神の海の。冷たさを。
その無限を。だからこその途方もなさを。
知って、どこまでも、孤独になれ。
芸術は、それを許す。



「土方」
ガードレールに腰と片手を預けて、ぼんやりしている姿が夜の中にあった。
まだ遠かったが、物理的には聞こえそうにない自分の声が土方に届いたのは空気でわかった。
こちらは見ずに、足を擦って、すこし頭が俯く。
近づいて、横から肩に頭を乗せた。
土方の手首に痕がついてるのが暗がりでもわかった。
まぶたを伏せて、視線を落とす。
「悪かった。辛かったか?」
髪ごしに、土方の喉が動くのを感じる。
それが何か言おうとして、やめる。
手がガードレールをすこし滑った。
「・・・セックスが理由じゃねェよ。別にどうでもいい、あんなの」
「じゃあ、何だ」
土方の右足が左足の靴をなぞるように踏む。
それから、ふーとため息が吐かれた。
こちらの頭に額が当たる。
「・・・高杉ィ、さっきちらっと見たけど、お前の絵。完成したとこが、色が、見たかったよ、俺」
「見せてやるよ」
「アンタらしくねェな、いいよそういうのは」
土方がすこし笑う。かすれきった声だ。そして、もう諦めてる。
高杉は、コンクリートの地面に目をやった。
自分は他人の気持ちをやさしく考えられない。だから、言わない方がいい。
「けど、俺、お前が来るのだけは、どっかでわかってたぜ。どこにいたって、絶対、来ると思った」
自分もそうだ。見つけるだろうとどこかで静かに思っていた。
自分にしかできない。そして、そこまでが、自分のできることだ。
・・・・あとは、あいつに任せるしかない。
名残惜しそうにこちらの髪に鼻先を埋めて土方が離れるのを感じながら、黒い地面を見た。


「うっわ、やめろよ・・・・」
坂田は、救急車の姿に跳ねた胸に手をやった。
こういう時だけ、それがすごく気になる。
こんな夜の中でも、人が集まっていて、赤いランプが目に痛い。
ざわざわとしている空気に、同じ音が自分の胸で騒ぐ。
車が停められていて、警察も来てる。
誰か跳ねられたみたいだった。
男が、と聞こえてきて血が冷たくなる。
一番近かった女の肩に手をかけた。
「男ってどんな男、何があったの、何、着てた」
見知らぬ女性は目を開いて、迷惑そうな目でこちらを下までちょっと見た。
「・・・どんなって、結構若い、黒髪で、ジャケットで・・・よく見てないけど」
一瞬、頭が真っ白になる。
まさか、土方。
救急車が急に音を立て出し、走り出す。血の気を引かせて、それを見た。
跳ねたらしい男性が警官と何か話している所へ、割り込もうかと思った時に携帯が鳴った。
「高杉?! ああ、なァどうしよう、土方が、」
「あー見つけた」
・・・へっ
「見つけたって、何を」
「土方。今一緒にっつうか、まァ、近くにいる」
目を見開く。
息が止まっている。
それから、急に全身から力が抜けて、へなへなとしゃがみこんだ。
ああ、よかった・・・・・
「近くにいるって、どうゆうこと?」
「疲れて、コンビニ前で座ってる」
「・・・・・・・・・どゆこと?」
高杉の短く簡潔な説明から推測すると、見つけたはいいが、歩き出したので、とりあえず、ずっと後ろをついていってたら、とうとう足がふらついて コンビニ前で座った、みたいな感じだった。
意味がわからん。何やってんだ。
「バっカ、お前、何してんだよ、早く連れて帰ってこいよ! ああくそ、どこのコンビニ!」
「国道沿いのローソン」
あそこか。
一回家に戻って、車を出した方が早い。

クライスラーのライトがまず高杉を照らして、端っこの黒髪を浮き上がらせた。
「土方!」
地面に座り込んでいるその姿に、バンと車のドアを閉めて駆け寄る。高杉は、灰皿の横でコンビニのウィンドウにもたれていた。 そこにいて、お前は本当に何をやってるんだ。睨むと、横目を返された。
「俺は謝ったぞ」
・・・そ、れは、すごいことだ。正直、予想してなかった。じゃあ何だこの状況は。
土方は、両膝を開いて立てて、その上に両腕を置いて垂らして、どこか呆れたような顔で高杉とは反対を向いていた。前でしゃがむと、土方の口が開く。
「はー、何なんだよ、お前ら・・・・・・3Pそんなによかったかよ・・・」
「アレはどうでもいいっつったじゃねェか」、と言う高杉に、「高杉」、強くたしなめて、土方の手をとろうとして、指が躊躇ですこし曲がる。
それでも指先だけ掴んだ。爪の先が割れてる。そういえば、強く床に立ててた。
「土方、悪ィ。ひどいことした、かも」
「・・・・・・・」
「俺にも性癖があってさァ、ああいうの止められねェの。気持ちとは別なわけ。男なら、そういうとこわかるだろ・・・・いや、悪いと思ってる本当に」
途中で、チラ、と視線を向けられて急いで目を伏せた。
ふてくされてるような、もうどうでもよさそうな視線だ。
ああ、何から伝えたらいいだろう。
「俺らが来たのは、ただ、帰ってきてほしいからだよ。セックスが嫌なら・・・しねえようにがんばるよ」
かすれた声で言うと、土方は、え、という形にすこし唇を開いた。
ぜんぜん考えてなかった顔だ。
バカだなあ・・・・・
お前は、自分を軽視しすぎだよ。
「・・・高杉ってさあ、ほら、ああだから。変なとこで機嫌悪くするんだよ、それでお前に当たったんだろうけど、要らなくなったわけじゃねェよ。 要るとか要らないとかいう問題でもないよ。お前ら、すげーじゃん。すげー精神的なもの見てるじゃん。 そういうとこで、お前らは繋がるんだろうなあ・・・・俺にはよくわかんねェけど。それって、もう、気持ちとか感情とか越えちゃった、魂の領域みてーだよ」
土方がすこし目を細めた。
高杉は足を組んで、3mほど前の景色に目をやっている。
坂田はその姿を、眉を下げて見つめた。
・・・お前、本当に土方探しに出たんだなァ。
土方の服の皺を見て、瞳の方へ目線をあげ、ちょっとななめ下を見た。
「俺はさあ・・・・何つうかその・・・・お前のこと考えるよ。考えさせられる。お前の色んなもの見て、いちいち反応する。 お前はそうやって俺ん中をさあ、かき乱して、荒らして、場所作っちまうんだよ。お前の場所。作られちまったモンは仕方ねェよ。 居なくなったら、ぽっかり空く。ソレ、苦しいから駄目。そばにいたいし、いてやりてェ」
ああ、本心だ、と言ってから思った。
言葉にすると、ちゃんと胸の中で形になる。土方の、形になる。俺の中で。
恋愛なんてややこしいもんじゃなくって、いい。
どこかいつも一人きりの顔をしている土方を、そうじゃない、と教えてやりたい。
お前の場所が、ここにあることを、教えてやりたい。
なあ、お前ごと全部、俺の中に入れてやるよ。
急に、しんとしている夜中のコンビニの光がある空気を意識した。
土方の視線を感じる。顔をあげられない。ますます俯いた。でも、ここで引いちゃダメだ。 地面をじっと見据えて、ゆっくり閉じた。

901号室の景色が浮かんだ。
あのソファーがあって、台所があって、CDが散らばっていて、そこかしこに色んな土方がいる。

「とにかく、帰ってこいよ。あそこは、お前の帰る場所なの。もう、お前がいて初めてあのうちなんだよ。
俺と高杉とお前がいないといけねェんだよ。
それが、お前の居場所なんだよ」

軽く握っていた、土方の指先がかすかに動いた。
まぶたの下から、彼を見上げる。
眉を寄せて、それがすこし下がってて、くちびるがちょっと開いていて、ひどく驚いているような 同じくらい悲しそうな、大波に襲われて飲み込まれそうにでもあるかのような、 顔をしていた。
「・・・・・・・、・・・・」
何か言いたそうに、土方の唇が小さく動く。
それから、わずかに視線が高杉に向いた。
高杉は、くちびるを開きかけたが、何も言わない。
だけど、お前らなら、言葉以外でわかる。俺が今壁を崩しかけてやった土方になら、きっと曲がらず伝わるはずだ。
案の定土方は、まぶたを限りなく細めて、俯いてしまった額に手をやった。
「・・・れは、・・・」

・・・・・・俺は
俺は、あそこが、帰る場所だなんて思ってない。
そんなの、必要ない。
居場所だなんて思ってない。
そんなの、ずっと、ない。
ただ、住人に惹かれて、その距離がだんだん縮まってしまって、居心地よくなってしまって、ジャズの流れてる景色がよくて、 ソファーが気に入ってしまって、喧嘩も散々して、色んな思い出ができてしまって、胸の中に建ってしまった。
それだけだ。
それだけなんだよ。

なのに、坂田が言う。「帰ってこい」と言う。高杉の瞳の空気もそうしてる。
俺のことを、待ってる。
俺の、帰りを。

・・・そういうのを、家って、いうのかな。
なあ、喉がひどく痛いよ 苦しい 悲しい 寂しい 熱い いたい 居たい
そこに


「土方」
坂田は土方の様子にうろたえ、瞳を揺らした。
彼へとそろそろ伸ばした腕が、止まりかけて、迷って、すこしだけ抱きしめる。
土方の体が、唾を飲むように、何かを怖がるように、 一瞬固くなった。やがて、・・・ふっ、 と色んなものがこもった息が吐かれて、本当にすこしずつ力が抜けていく。ああもっと早くにこうしてればよかった。
何の下心もなく見返りも求めない、土方のためだけに与える抱擁。
それがすべて土方に流れ込んで、その他の全部が抜け落ちるまで、長い間そうしていた。
「・・・なァ、土方。何か言って・・・」
とん、と額をつける。
土方の髪が夜の風に揺れた。
柔らかくて、とても綺麗だった。
その頭が、ぐ、とこちらに押し付けられる。
「・・・・・・・あのな、言っとくけど、お前ら、本当にひどかったぜ・・・」
それを言われてしまうと、もう謝罪以外できない。
馴染み始めてた分、手の平を返されたような気分だっただろう。
「ごめんナサイ・・・・」
背中にやっていた手を、黒い頭へと上らせる。しばらくの間、それを肩へと預けさせていた。そうして、土方が、「・・・もう、いっつんだよ」とすこし身をよじる。
「じゃ、帰る・・・?」
のぞきこむと、土方は自分を見てから、ふっと静かに目線を伏せた。
「・・・・歩き疲れたしな」
物理的なことだろうか。比喩的なことだろうか。

車に乗った土方は過ぎる景色を見ていた。
坂田は、何度も、ルームミラーからその顔に目をやった。
その唇が、いきなり開く。
「ピアノが」
「え?」
土方はウィンドウを通り越した何かを見ていた。ひどく急いているように頭の一部を奪われ、こちらの椅子に急に手をかける。
「あのよ、悪ィけど、山崎の、あいつん家まで、送ってくんねェ」
「・・・・・・・・」
・・・何を言い出すのか。そんなのは絶対嫌だ。そのままどっか行ってしまいそうで怖い。連れて帰りたい。 これで消えてしまったら、もう本当に取り返しがつかない。
「送ってやれよ」
ハンドルを握る手に力をこめていると、隣の高杉が言った。
横目で見ると、頬杖をついて窓の外を見ている。
不思議と、・・・わかったよ、と焦っている自分を了承させてしまう静かな声だった。
「・・・・じゃあ、お前責任持って、一緒に帰ってこいよ」
「俺も行くのかよ」
「当たり前だ!」
「お前はどうすんだ」
「家で待ってる」
土方に聞こえるよう、答えた。
元々、土方はお前が連れてきた奴だ。今回の発端も、絶対、お前だ。 俺はもう言うことは言った。後は待つだけだ。
最後は、お前が、ちゃんと一緒に帰って来い。
山崎のアパートの階段を駆け足で登っていく土方と、土方さん!とそれを呼ぶ山崎の姿と、 自分のペースで一段一段あがっていく高杉をまだ落ち着かずに見送った。 けど、あの家で待ってる者がいることを示さなければいけない。俺は、そっちだ。



すごい曲ができ始めた。
ここからの展開をどうしようかとずっと悩んでいたのが、いきなり降ってきた。
たったの8小節だったけれど、自分で心底満足できたフレーズだった。
忘れない内に、弾いておきたかった。
山崎の家からの帰り道、高杉はななめ前を歩いていた。
速度をゆるめることもしなかったし、手をひくこともしなかった。
「お前の才能底なしかよ」
「まァ、アレは自分でも結構いいと思うけどよ」
「うちに持って来いよ。防音くらいつけてやる」
会話はそれだけだ。
それだけで、よかった。
その後はずっと無言だったけれど、今までそうされてきたように空気が勝手にこちらの体を引っ張った。
足が自然とついていった。
出会った時と、同じだった。
もう見慣れてしまったマンション。電気のついている9階のはしを見上げる。
ぽう、と灯ったそれは温かい色をしている。
暗くて真っ黒な夜の中で、『帰っておいで』、と甘く誘う。
坂田が、俺の居場所だと言う。高杉が、ピアノを持って帰ってこいと言う。
ドアを開けると、ずっとそこで待っていたのか、玄関に坂田がもたれて立っていた。
思いきり目を細めて、唇で笑んでくる。
それから、いきなり両手を広げた。
何事だ、と高杉と一緒にけげんにしていると、無理矢理引き寄せられて、二人とも頭を抱きしめられた。
ぎゅう、と、思いきり力をこめて髪が擦り付けられる。ひどく柔らかくて切なそうな声が耳に落ちてきた。
「お帰り」







2008. とりあえず一段落です・・・・お付き合いありがとうございます