鍵盤が吸いつく。きれいな重さで沈んで、きっちりあがる。
気持ちいい。
(けど、難しいな)
選曲はほとんど自分が得意な曲より、静かでスロウで落ち着いた、あくまでBGMになるような。 そればかりなんてあまり弾かないからちょっと苦労する。けど、入り込んでしまうと止まらない。
ちょうどよく間を空けながらも流れるように弾いてきて、
「・・・・・」
ふう、曲の間で一息おいた。
薬指を鍵盤に置いて、次の流れを感覚だけで確かめる。
俺も大好きなビル・エヴァンス。
指より感覚が先にあって、どう弾き始めたか一瞬忘れるけど、2小節目で没頭する。
「・・・あ、Come Rain Or Come Shine」
誰かが言うのが別次元に聞こえる。聞いてくれてる人がいるらしい。
人前で弾くのも悪くはないか。
最後の音の伸びが切れたら、「・・・・・・は」、と熱くて短い息が漏れた。


「あれ坂田は?」
初日が無事終わって外に出ると、高杉だけがベンチで煙草を吸っていた。
「先帰った。おかしいぜ、あいつ」
「ふうん」
初給料だからサービス、と手渡しでもらって半分に折った一万円を何となくこすり合わせる。 ピアノで稼いだ金。不思議な気分だ。こんな紙切れ一枚だっけ。
何が一番よかったか聞いてみれば、
「Come Rain Or Come Shine」
と返ってくる。
・・・俺も。今日高杉に聞いてから、それを弾くのを一番楽しみにしてた。
最終電車はほとんど人がいない。お互い向かい合わせの席で贅沢に寝転びながら、落ちている足をぷらぷら揺らす。
「その一万どうすんだ」
「・・・お前は初給料入ったら何に使うんだ」
「夕飯」
「食いに?」
「家で魚焼く」
いつもと同じかよ。初給料で買った魚を家のキッチンで焼く高杉か。
「へえ、何か、かわ、い・・・」
あぶね
途中で口にフタしたのに、バコン、と脱いでいた靴を投げつけられた。いってえ。体勢を整え、しーんとなった夜の中車輪の音を聞く。 もう夜中近い電車は静かだ。
こうなると一気にわかる、体の重さ。
「はー何か疲れたな・・・」
「それが労働だろ」
「ボンボンが言うなよ」
半目で見ると、更なる半目を真正面から返された。
「お前、本当に余裕じゃねえか、なあ」
う。だから、怖い。パズルの件では調子に乗ったとこがなかったわけじゃねえけど確かに。そろそろ危ういコレ?

「ちょ、高杉、ここは、ッいっで!」
家に帰り、先に靴を脱ぎ、先にリビングに入ったにも関わらず、高杉はすでにパズルを避けながらすぐそこにいた。
(くっ、器用すぎる、こいつ)
後ろ足ですこし下がりかけたら、 シャツの襟を引かれ思いきりくちびるに噛みつかれた。(おい、皺になる)、と思うけど、 それだけでじんと震える俺は、逃げ込もうとしていた俺の部屋のベッドで簡単にうつ伏せにされる。 ・・・何て弱いんだ俺。この体勢からの挽回に成功した試しがない。 ・・・や、他もないけど。ああくそ、頭を打ちつけたい衝動に駆られてると、すぐに今度は首にくちびるが落ちる。
「んっ、なあ、何でここ?」
「パズル」
・・・いやまあ、あんだけ散らかってりゃ、あそこではできねェよ。確かにそうなんだけどよ。つかいつ完成すんだアレ。まさかそれまであのままか。
「・・・・ッ、な、なあ」
「さっきから何だよ、うるせェなァ」
・・・・いやだって
何ていうか、その、今まで高杉と。
ベッドで、したことが、ない。
床や風呂やソファーはあっても、こんなオーソドックスにベッドの上で、しかも俺の部屋で。
ピアノの感触もその後ぼうと見た電車の外の静かな夜も、まだ抜けきってないのに。
Come Rain Or Come Shineを弾いてた。お前は聞いてた。 さっきまで電車でお互い子供みたいに寝そべってた。なのに、今はベッドで、こんな風に、っていうの。
それが何かさ。
「・・・・んッ、ふ、」
高杉が膝に体重をかける度、ギシ、と鳴る。シーツの感触がする。高杉が俺の後ろからついた手に皺が集まるのが見える。
電気の点いてない部屋の中の、隅のベッドで。2人だけ、熱がこもっていくのがわかる。
「・・・ッ、高杉」
「あ?」
「・・・・何か俺、すっげ恥ずかしい・・・・・」
腕に顔を埋めてそれだけしぼりだすと、一瞬だけ止まった高杉の顔が横まで降りてきたのがわかった。
「のッぞくなバカ」
手で高杉の額をぐぐぐと押しやるのに、力も指の動きも弱めない。
くそ、耳まで赤くなってるのが、熱さで自覚できる。
「てめェそんなんでよく俺にかわいいって言えたな」
「もう言わねェって、ッあ、」
反射的にシーツを掴んで額をこすりつけた。唾液がもれる。してたことは一緒だ。
けど、ベッドの上であぐらをかきながら、煙草吸うのって何か、
「セックスした、って感じ・・・」
何だかまだ落ち着かない両目を手で押さえてみて、「灰落ちたぞ」、 ・・・・いつも通り空気を読まない声の高杉を指の隙間からちょっと睨んだ。



「だから、隠しボスを倒すには耐性のスキルをちゃんと振り分けないと」
「うるせえええ細かすぎんだよォォ!」
ゲームの攻略レクチャーを受けてる内に、枝豆をグラサンへ叩きつけた。
手に持ってるビールが何杯目かは、かなり前にわからなくなった。
(何で素直に自覚なんかしてみたの俺)
やめときゃよかった。思考停止でもなんでもして。どんな顔して帰ればいいんだか。
自慢じゃないけど、自分は大事な時に抑制がきかない。
・・・土方の顔をみて、急にとんでもないこと口走ってしまったらどうしよう。
(怖え。)
俺たちはみんな、誰かのものじゃないってルールを、崩しそうで。
その一線を越えた後の、土方の反応だって。関係の行方だって。
頭の芯が、そんな考えでぐるぐる回って酔いそう。いやもう酔ってんだけど。
「そもそも銀さん、店で武器強化してる?」
長谷川さんに、坐った目を向ける。
「長谷川さんさあ・・・・独りって気楽?」
「え? 気楽だけど寂しくなんか全然ないけど!」
ああ平気なタイプじゃないんだ。
「いやだってアレだからね! 大人になったら金はあるけど時間がないっていうの、俺は違うし!」
「うん、金もねェもんな」
「銀さん・・・独り身のオジサンには優しくしようよ」
うちに帰ったら、高杉がいる。土方がいる。
その光景は、守りたかった。
「おい、しっかりしろよおっさん。ケンタッキーに話しかけてないでほらァ」
結局酔い潰れたのは長谷川さんで、俺が介抱するハメになった。 ハツー、だの、人は死んだら魂どこに行っちゃうのォ、だの、ぐだぐだ言ってる彼に肩を貸して歩く。 同じような光景を結構見かける夜の喧騒。「ちょ、体重全部かけんなって」、途中、 高架下の前でガーと電車が通った。 大の男の体をかつぎ直しながらその明かりを見上げてたら、おっさんは急に静かになって、「後悔だけはしちゃダメだよ銀さん」、と、酒臭い息を吐いた。
・・・うるせえな。重いんだよ。


(あー肩が痛ェ。)
始発で帰ってくると、まあ当然のように家は静まりかえっていた。
熱い茶が飲みたい。パズルを踏まないよう気をつけて、薄明るいキッチンでコンロを点けた。
チチチ、ボ、と響く小さな朝の音。
湯気のたったマグカップをすすりながら、何となく土方の部屋を見るとドアが半開きだ。
中をのぞいてみて、ふ、と柱にもたれかかる。
「・・・・・・かーわいいの」
ったく。
ベッドの上で丸まってる土方と、その足を敷いてる高杉、どちらも寝息をたてて、黒猫2匹みてえ。
高杉が土方の部屋にいるなんて珍しい。
(・・・それにしたってさ)
こいつらはいつもほんと。俺に車出させたり、猫の世話したり、ドミノ並べてみたり、 俺が居ようが気にせずセックスしてたり。
次男と末っ子みたいに何でも好き勝手に。 お兄ちゃんの苦悩もまったく知らないで、土方が来てからこっち、賑やかで退屈する暇がない。
お前らがいて、よかったな俺。
本当にそう思うよ。
このまま続けばいいと。
(だから、自分の中で土方に揺れてるメーターを握って止めたいんだけ、ど。)
んー、と不機嫌そうに頭だけ寝返りをうつ高杉の艶やかな前髪に目をやって、 こちらからは顔の見えない土方のすうすう動く丸まった背中をしばらく見つめた。



「・・・・う、」
土方がまぶたをしかめて目を開けると、高杉の頭が腰に乗っていた。
「高杉・・・」
何で枕に足乗っけてんだ・・・
がりがり額をかいて、また頭をぼすんシーツに戻す。
(くそ、だるい・・・)
・・・春から本当によく眠れない。
起きあがって少し左右を見た高杉は一瞬ここがどこかわからなかったらしい。 眠そうな目が髪で隠れてるまま、やがてくぁと小さくあくびした。
「銀時一回帰ってきたみたいだな」
リビングで、視線につられてぼんやりテーブルを見る。マグカップと、灰皿に水色の線が入った吸いがらが一本だけ。 フィルターまで半分くらい残ってた。
「うわもったいねェ・・・」
火をつけ、煙を吐く。
「キース・ジャレット、レイ・ブライアント、上原ひろみの・・・・」
トントントン、とペンでテーブルを叩く。
もっと何かねえかな、一曲くらいインパクトあるやつ。ママは何でもいいって言うし、せっかく自由なんだから。
「あ、エゴラッピン」
とCDを裏返すと、床でコーヒーを飲んでた高杉が意外そうな顔をした。
「どれ弾くんだよ」
「え・・・・・・くちばしにチェリー」
「ど真ん中行ったな」
「濱マイクのオープニングだったし」
何だソレ、という眉の寄せ方してる高杉に、今度はこっちが、えっと顔をあげる。
「は? ほら、毎回監督が違う、4話目を行定勲が監督してよ、9話が中島哲也でよ、」
「・・・・・」
「な、おま、ブランキー・ジェット・シティーのドラム出てんだぞ。ナンバーガールもUAも、」
林家ペーパーも
と語ったところで、高杉は何事もなかったかのようにパズルへ目を戻した。何だ、聞けよ。ペーとパー子が駄目だったのか。
「土方。明日から出席稼ぐから、俺ほとんど大学行ってんぞ」
高杉に声をかけられるまで、時間の感覚が全くわからなかった。
まあ十分だろ、程度ではやめられないらしい、俺は。
まだ、曲を考えてる途中で一瞬ぽかんとした。
「あ? 何稼ぐ?」
「出席点だよ」
ああ何だ・・・高杉がそんなことわざわざ報告するなんてどうしたんだ。
「天地がひっくり返るんじゃねえか」
と後ろに背を預けたらガッタン、椅子の方がひっくり返って、一瞬心臓が止まりそうになった。
「・・・土方」
「うるせえ・・・」
ゴンっていい音したのにまだすっきりしない頭で、高杉の呆れた声を遮る。



こないだ金時にもらったパチ屋の整理券。
こんな朝早くから並んでるヤツいねえだろうと思って家を出たのに、もう3人いた。
月イチの『凄出しデー』らしい。
別に早く並びたかったわけじゃないからいいんだけど。
(・・・凄出し、て)
「ネーミングセンスねえの・・・」
「ね〜」
ぽそっとつぶやいた独り言に隣から声が返ってきて金髪が目に入ると同時に、うっわっ!とのけぞった。
「き、金時、何でいんだよ!」
「だって、凄出しだしー」
壁に背を預けて、座った膝に腕を乗せてる彼の指先に、ピンクの整理券が3枚はさまれてる。
こいつ何枚持ってんだ。つか、
「俺の黒色なんだけど」
「それどんなイベント日でも一枚で入れるすごいやつ。感謝してよ」
「マジでか! ・・・・・荷物運んでやったろうが」
「土方くんは? こういうとこ連れてこないの?」
「連れてくるって、子供じゃねーんだよ」
「えー俺はパチ屋デートもしたいけど」
ふーーうーん、あっそ。
今は土方を意識したくねえ。特にこいつの前で。コンビニで買った雑誌に目を落とす。
「土方くんといえば、バイトとやらは上手くいってんの?」
「あー」
ケーキ屋特集のページを開いて、無心で彼女と行く店を探すことに集中した。
「口説かれてないといいけどなあ〜」
「・・・・・」
「だってさー俺なら好みの子見つけたら、どんだけ駄目と言われようが外で待ち伏せしてでも声かけるしさー」
「・・・・・」
「土方くんだって、好みのヤツ見つけちゃうかもしんないし」
ページを持っていた手がすこし揺れる。金時の視線がわかって、悔しさでばっさと乱暴にめくった。
「心配ならお前がついてりゃいいだろ」
「あの界隈で土方くんとのことバレたくない」
「変装でも何でもしろ」
「ルパンじゃないんだから」
言いながら金時は、タバコをくわえた。ん、とこちらに箱を振ってくるので、眉をしかめたままながらも一本受け取る。
「お前だけが頼りなのにな〜」
「俺は番人か」
「似たようなもんじゃん。来る奴みんな追い払えばいいでしょ」
低く笑って、ジッポを鳴らす音がする。
「そんでそうやってさ。いつまでもお前らの居場所って名の籠ん中に閉じ込めてればいいじゃん」
苺のミルフィーユの写真がばっと視界から真っ白に飛んだ。
ゆっくり金時を見ると、のん気に煙の輪っかを作っている。
そんな、と言いかけた口が自信なく中途半端に開いたまま止まった。
「・・・・・」
そんなつもりないって。そんなつもりで土方といるんじゃないって。本当にそう言えるんだろうか、俺は? 土方に入り込んだ金時について文句言いながら。
煙草が下がる。
・・・・俺は、土方に今のバイトで問題が生じたら、排除するつもりでいたけど。男とか、男とか
もし。土方があそこで誰とにしろどんなものにしろ関係を築いたとして、それを怒る権利が今の俺にあるのか。
そうやって限定する権利が。土方のことを。
ないに決まってる。
・・・・あるとしたら。もし、あるとしたら。
(・・・昨日、越えちゃいけねェって耐えた線の向こう側にだ)
「でも俺のことだけは認めてほしいんだよねえ。かわいい弟に」
「それが本心だろ」
「あれ、考えてみるきっかけになんなかった?」
・・・なったよ。わかってるくせにこの野郎。
番号を配り出した店員を見て立ち上がり砂利を払った。券を渡してカードをもらう。整理番号、4。 うお、すげ。4番目なんかに店内入れたら、どんな人気台でも打てる。
「・・・ここって何か新台入ってんの」
「お前知らないの? 何でこんな早くから並んでたのよ」
いいだろ何でも・・・ポスターを見てる横で、金時がカードをぱたぱた揺らす。
「整理券かあ。土方くんもこういうの配ってくれたらいいのにね。・・・痛っ」
その番号を思いきりはじいてやった。
んなもんあってみろ! はっきり順番つくんだぞ。俺は何番のカードを渡されるんだ。



「あ、銀ちゃんいいとこ来た」
閉店まで打って12万勝ち。まあ、俺の引きがよかったからだけど。こんな大勝人生でまだ二回目、並んだ甲斐あった。 万札を指で数えながらバーに入ると、ママが小さく手招きしてきた。
ピアノの照明は落とされてる。休憩中?
「土方は」
「裏で煙草吸ってる。見たことない客が1人外出たから様子伺ってきたんだけど何か喋ってるみたいよ」
え。
「銀ちゃん」
すぐ向かおうとした腕を掴まれる。ぐ、バカ力、痛い痛い痛い
「土方くんに、中入らなくて大丈夫?って声かけたら、いいって言ってたからたぶん大丈夫なのよ。 でも見てきてよちょっと、ああでも今日晋ちゃん来てないし、ほら早く」
どっちなんだよ、器用に押しながら引っ張り返すな痛いって。つか晋ちゃんなんてお前いつの間にあいつを気に入った
(あー、も)
じんじんする左腕をさすりながら、おかげで少し冷静になった。
今朝、土方のプライバシーは守った方が、邪魔しない方がいいって。そう考えたのを思い出した。
そう、ブレーキ、握んなきゃ
裏口から出ると、確かに土方が壁にもたれて煙を吐いている。その隣に男がいる。とりあえず聞き耳だけたててみる。 聞くだけ。ほんと。 どんな話をしてようと、俺の知ったこっちゃない。
「5万出すよ。うちで弾いてくれたら」
男の声。
「回りくどいこと言うなよ、したいんだろ」
土方の声。
「話早いね」
「・・・」
男の、伸びる手。
「・・・・・おい」
と出た、低い声が誰のものかよくわからず、両端の景色が吹くように飛んだ。
坂田?とのん気な土方の声がよぎった気もする。
くわん、くわん、と音が鳴ってると思ったら、ポリバケツの蓋だった。
(・・・・あれ?)
男の体は、何かゴミ箱から転がり落ちた地面でうめいている。
自分の右手が力の限りで殴った名残のまま止まっていて、「・・あっ」、と間抜けな声が出た。
土方が、煙草の傾いた口を少し開き、こちらを見ていた。
(・・・・・・やっ・・・べえー、やっちまった!)
思いっきり、ぶん殴ったコレ。
土方の意向も知る前に、勝手に。
何がプライバシーだ。
手を腰の服でこすってから、額を覆ってうつむく。
金時、俺さ
考えてることとすることが全く別に出るタイプだった。つか、お前も知ってたはずだろ、ソレ。