「銀時これ右? 右で合ってる?」 つうー・・・・・・ 内側からどんどん叩かれてるみたいに痛みが走る。 金時の声も向こうの花火みたいに遅れて聞こえた。体の動きや視界が・・・なんか鈍い。 「銀時・・・チ、カローラの分際で何割り込んできてんだよ」 ・・・何だ、坂田の返事がないなと思ったら、やけに自分の方に視線を感じた。 ちらり視線をやると、予想以上に自分を見てる瞳の光に、(うわ)と顔をそらす。 ・・・そんな目で今の俺なんか見てても何もねえぞ。・・・情けなさと、愚かさしか。 「ねえってばカローラにつられて曲がっちゃったよ」 閉じたまぶたの暗さ。 昨日の夜の風景が重なる。 ・・・・・・・・・・・・昨日・・・・・・ ・・・・何を弾いたのかは、まったく忘れてしまっていた。 でも、闇の暗さを克明に覚えていた。・・・滑った足元だって。 感情の不安定過ぎる上下も。 果てには、全部から逃げてしまいたくなった、あの無力感を。 (・・・限界って、ああいうことか。) しんみりしていると、 「着いた。奇跡」 金時が踏んだブレーキで、ぼけっと自分を見ていた坂田が窓に頭をぶつけた。 「ッてめ踏むなら踏むって言えよ!」 「知らないよ、散々無視したくせに。何うっとりしてたの。失いかけて初めてーとかベタなことやめてね」 「な、いですけど、別に!」 俺もてめーの膝から落ちそうになった、とか文句を言ってやりたいのに、彼らがとても遠い。 昨日のことが、まだ自分の中に黒くざらざらした感触として、うずくまっているのがわかる。 その中でじっと座り込んで目を伏せていたら、 「土方」 ふいに上から手が伸びた。 「着いたよ」 先に降り立った坂田の背後に、青い空とちぎれた雲が広がっている。 その光を受けた銀髪が、すこし、まぶしい。 ・・・・・あ、今日、こんなにいい天気だっけ・・・・? 「、・・・・・」 その明るさに動けないでいたら、くちびるを開きかけた坂田が、こっちの手首をぐいっと掴みひっぱり上げた。 「あちょっと待って電話。銀時、先つれてって」 金時が携帯を出して、手だけでひょいっと合図する。俺に手首を引っ張られている土方は、黙って何も言わない。 (・・・・は、離すタイミングがわかんないんですけど。) いつもならすぐ文句言うくせに。 こんな時に限って、真剣に何か話し出した金時に半目をやり、病院の入り口まで歩く。 薬の匂い、うすい緑のスリッパ。 こういう所に来ると、健康じゃないことを確認するようで背中がちょっと緊張するな。いつも。 健康じゃない。・・・そりゃ、食欲なくて不眠で落ちてって、てんで健康じゃない。 ・・・・・こうして掴んでる手首があったかくって、よかった。 「これ埋めろだって」 受付で渡された質問ボードを、土方に手渡してから待合室のソファーで隣に座る。 土方が、ゆっくり、えんぴつで質問の答えを埋めていく。 静かだ。 ソファーの肘かけに頬杖をついて、なんだか、ぽーとした気分でそれを見守った。 (・・・・・うん、土方だな・・・・・・) つい昨日まで平和に家にいると思ってた土方だ。 ・・・・はあ、こいつの目が覚めたことで、ようやく一人息がつけるよ・・・・ 頬杖ついた手から頬の肉がはみ出る。何せ一歩間違えれば失うとこ・・・・・・・・・・ 『失いかけて初めてー』 考えてる横目に、きれいな水越しみたいに、クラシックのピアノ音楽を何となく意識している土方が映った。 誰かの咳。俺のすぐそばで、ちゃんと流れてる土方の時間。 ・・・・目の前のそれって、他の景色と色の具合や匂いが違う。それは心底うれしいのに、どっか泣きたい。 こんなのこないだまで当然のことだったのに。 なあ、土方。 お前が今ただこうやって当たり前に隣にいることが。 ・・・そういうことが。なんか、俺 「・・・・・・坂田」 「えっ!」 「でけえよ声・・・これ何て読むかわかるか」 「あ、あーどれ見してみ」 ボードをのぞきこんで、アレルギーの項目に指の腹を落とすと、えんぴつを握ってる土方の手に触れる。 あー・・・・ 土方の息が近い。そのため息の深さに、ずっと伏せられがちのまつ毛を見た。肌に落ちてる暗くて濃い影。 ・・・・・全く、いつまでそんなのつれてんだ。 『外来受付』という看板が、記号みたいだ。 受付に質問シートを提出して戻ってくると、坂田はぼのぼのを取ってきて読んでいた。・・・ぼのぼの・・・・・と、ベートーヴェンのピアノソナタ21番・・・・・・ 何だこのミスマッチ 「なあ土方」 見るでもなく見ていた靴から、坂田に目を移す。 「そのー昨日のことだけど」 ・・・・・きたか。 それについては、何か言われるだろうと思ってたけど、内心ドキとする。 その銀色の髪が、ソナタの曲調と一緒に妙に静かに光って見えて、なんか返事できなかった。 「救急の先生に精神科にも行くようにって、すごく念押されたよ。まともな状態じゃねーってことはわかってるんだけどさ・・・」 髪の中に手を入れたままかりかりとかいているそれから、目線をそらす。 (・・・逃げたい。) 正直。 坂田が、なにか大切なものを先に見据えている雰囲気をわかりながら、体がちょっと隣から離れた。 「・・・何だよ、言いたいことがあるなら・・・言えよ、別に」 「そう構えるなよ。別に誰も怒りゃしないから」 ・・・それこそ別に、怒ればいいのに・・・・・俺が弱かっただけなんだから。 「・・・・・金時は」 「まだ電話中じゃない? 深刻そうだった。珍しいよね。・・・話、そらすなよ」 ・・・わかってるよ。昨日は一体何考えてたんだって、聞きたいことが、たくさんあるんだろうな。 「・・・・・先に行けないなら、もうそれで。どうでもよくなった」 言うと、坂田は口を半開きにして、「・・・・」、考えるように徐々に落とした頭を、片手で前髪ごと支えた。 その恰好は、競馬で負けた人みたいに苦悩しているように見えて、でも、惨めそうではなかった。 ・・・静寂。 人の足音。受付が呼ぶ、誰かの名前。 「・・・土方って、理想に貪欲なんだな」 ぽつりと、思いもしなかったことを言われて、もう一度坂田を見る。 「貪欲だよ、土方は。今持ってるもの以上のことを、何をそんなに、望みすぎてんの。だって俺は・・・ 高杉とお前がいるあの家が、一番大切だって知ってるのに」 そんなの・・・・・そんなの、俺だって それくらい でもだって、俺には俺なりの問題があって、当たり前なそんなことを、飲みこんでしまってたんだよ。お前に、今のんびり漫画なんか読んでるお前に、 「何がわかるんだよ」 自分のせいで心配かけておいて、一番子供じみたセリフだと知っていながら口に出た。 坂田はいつもの厚いまぶたを上げ、じっとこちらを見つめた後、ふーと呆れたようなのん気に聞こえるような息で漫画を抱えなおした。 空気が、病院の白より澄んでる。 物理的じゃない力が自分を引き戻そうとする予感。 ・・・なぜなのか、肌が、それを怖がりでもするかのように、ざわめいた。 「あのさー何言ってもそう返されたらどうしようもないから、1こだけ言ってやるけどさー」 坂田の声は淡泊で、余計なことは何も聞かない。俺の突っぱねるような返しも無視だ。何か、ぼのぼのの平和な表紙も目に入る。 「だってさー土方がいつどこで立ち止まって、どこへ進もうと思っても」 指が簡単にページをめくる。 「お前の一歩一歩は、今や全部、あの玄関のドアから始まるんだよ」 坂田が足を組み替えた。 瞬間、纏わりついていた昨夜の黒いものたちが、ざあっ・・・とはがれていく感覚。 ここは今どこで、前はどっちなのか。昨日、暗闇で見失った方角が、坂田の声に導かれて張りつくみたいに、全身に戻ってくる。 そのせいで寒いとでも言ってるみたいに、椅子へ爪を立てた手に。 坂田の手の側面が触れあって、人差し指だけ、絡んだ。 「泣きたいなら、泣いていいけど」 「・・・・誰が、泣くんだよ」 看護師が、名前を呼んだ。 「今、軽い鬱状態ですね。死にたくなるのは症状です」 医師はさらっと言った。 あんなに質問のあるチェックシートをやったのに、答えは卵焼きの作り方より、簡単そうに聞こえた。 その、昨日の夜に・・・とか、毎年春が何か・・・とか話したことが、馬鹿らしくなるくらいだ。 そりゃ、内容は話せてないけど。 かと思えば、 「安定するまで、必ず、通院して下さい」 とても強い口調に、う、と押される。 「安定剤を注入しましょう。楽になるからね。大丈夫、大丈夫」 けど、その『大丈夫』には、胸がしめつけられるくらいの安心感があった。 涙が出そうだと思ったけれど、泣きたくなるのはそれも症状だそうだ。 金時はセンティアに寄りかかって煙草を吸っていた。薬の説明書きを読んでいた坂田が「おっ前」とその紙を丸めて金時の肩を先でさした。子供か。 「人に薄情とかよく言えたな!」 「ごめんね」 そう軽く言う笑みが、いつも通りすぎて逆に違和感。そして、もうひとつは、さっきから唯一、ここにいない。 当たり前のように後部座席の隣に乗り込んで来た坂田を見て、窓の外を5秒くらい見て、やっぱり坂田を見た。 「・・・・・・・その、坂田、聞きてーんだけど」 「高杉?」 ・・・・正に。 今どこにいるんだろう。・・・今回のこと、どう、思ってんだろう。 こればかりは、返ってくる言葉が、怖い。 安定剤のせいでひどく眠たいのに、それだけが引っ掛かって脳の芯だけがぴんと起きてる。 昨日のことがあった以上、その、あいつが、失望とか 「さあ、たぶん土方が心配するようなことは・・・・・」 そう答えかけた坂田を、息もせずに見つめる。 夕焼けのオレンジが、顔の左側にじわりあたった。 そんな自分を見ていた坂田は、まぶたをゆるめて言葉を切った。 どっち、だ 心配すること、は、あるのか。な、いのか 「おーい出発するよ。帰りにゼリー買おうね」 金時が踏んだアクセルの反動で、坂田の体がこちらに揺れる。近い。 窓に後頭部をつけたまま見返した先の坂田は、くちびるが触れそうな距離で、すこしだけ割れ物にするみたいに俺の前髪にさわった。 それから、「・・・あのなあ」と低いため息をつく。 「落ちたって言われてみんな本当びっくりしたんだよ。・・・とりあえず今は何も気にせず安心させてて」 そうはっきり言葉にされると、何も返せない。半分抱きしめられたような格好で上半身だけ棒のようになった。 ・・・・・それは・・・悪かった。 ・・・今ならそう思えるけど。 首にあたるくせっ毛。 何かはぐらかされた感じがしないでもねんだけど。 ・・・なに、高杉のこと言えないくらい、あいつ、なんか、あった (・・・はー・・・) 土の匂い。 救急病院から、外科、精神科と、ぜんぶ終わって、土方がまあそこまで大事には至らなかった。 これで帰れると思ったら、一気に力が抜けた。 だって高杉は暴走するし。金時はいねえし、道頼りになんねえし。俺がついてないとって、張ってた糸がなんか切れた。 「銀時、体重であんま負担かけない方がいいよ」 うるせーよ、今だけ。 「土方くんごめんね行けなくて。診察どうだったの? 先生何て? それ薬? ちょっと見せて」 「いや・・・この状況見ろよ、動けねえよ俺」 ・・・きゅ、と触れてる人差し指を折り曲げる。 さっき病院でもくっついてた指があったかくて。 ・・・お前を失うのかと、思った怖さのせいで。無事でよかったと思った時から。 なんだろうと、考えていた淡い光がよみがえる。 (・・・・・あーこういう気持ちって何ていうんだろうな・・・・・愛しいっていうより何かもっと単純な・・・・・・・・・・・・・) 目を伏せたら、看板が色になって過ぎた。車がカーブを曲がって、土方から流れ込み、胸の奥で広がる光。 (・・・・・え、もっと単純な?) ぼんやり見ていた土方を目の前に、自分の内側で舞っているものに気づいてちょっと額を離す。 陽の光にてらされた土方の服のラインが、やけに柔らかく目に映る。 あ、何だっけ、これ・・・? 「銀時さあ、邪魔するようで何だけど、彼女の誕生日いいの?」 ・・・・・・えっ? 自分をバックミラーで見ていた金時の声が、冷や水のように飛びこんでくる。 は、と携帯の存在を思い出した。病院だったから電源、切ってた。 「わ、やっべ!」 しまった。今日、昼から約束してた。うっわ、どうしよ ボタンを押すと、メールが4通。不在着信の知らせが3回。おそらく待ち合わせ場所に延々待たせたまんまでいる。 でも土方が・・・と隣を見ると、土方はなんだか、 「誕生日か・・・・」 過ぎる窓の景色を見ながら、ぼんやりつぶやいた。 ようやく春から夏に向かおうとする、木々の葉。濡れるような緑。 「・・・・・誕生・・・」 小さくくちびるが動く。 街頭の連休のニュースに、揃った数字が映る。 「・・・・・・・あ、誕生日だ俺」 赤信号で、金時がキィィィとブレーキを踏んだ。俺は遠心力に放り出されるがまま運転席の後ろへぶつかった。 痛い鼻を押さえて見開いた涙目で、ぽつりもらした土方を凝視する。 「・・・え、何だよ」 けげんそうに聞く、空高く灰が舞いのぼってくような瞳。 それは、出会って初めて目が合った時の。写真を見て自分の笑顔にびっくりしていた時の。俺がスーツでその肩に寄りかかっていた時の。 いつもいつもそこにあると思った、土方という男の全て。 それが、どうしようもなく、息づいて、ちゃんと年とったりなんかしながら、目の前にいる。 (・・・あ。) はっとするような、ずっと前から知ってたみたいな懐かしい匂いに、すこし、息をわすれた。 この感じは。 これこそがいつも見失うと思った、本当はとてもシンプルで簡単なことだ。 → ← |