何かのことを言葉で知るときは、来るべくしてやって来る。 と、 思う。 こどもが学んでいくのと、同じだ。そういう意味では、俺たちはいつまでも物の名前のこどもだし、 目の前のものをコレは何だろう?、と思って、見てる。初めての色の名前とか、雪とかみたいに。生まれて20年経っても。 そう思ったら・・・ 何か、いじらしいな。 「金時の勘?」 水たまりと一緒に光が跳ねた。 歩道橋の階段を下りつつ。 つい手すりを掴むと、しずくの感触がすべるように手の下を通っていった。 「そう、なんとなく察したって」 「そっかぁ。あの人ほんとかわいくない、バカじゃないとこが・・・」 電話の向こうで、彼女が苦笑する。土方もすこしつられ笑いをした。 (まあ、ちょっと、わかる。) 金時は、相手の本気度を、正確に読むから。案外、真っすぐな視線に一歩ゆずる。・・・動物的だ 「昼まではうちに居たよ高杉。岡崎京子を読みふけってたよ」 「・・・何か言ってた?」 「う〜ん、土方くん大丈夫?って聞いても答えないしタイミングも変だしそっとしといた、あっ岡崎京子についての方だった?」 ち、ちがう いまその感想聞いて、なんて言うんだ俺 「それにしても、土方くん・・・」 雨音に甘さがまじって、俺はまつ毛をあげた。 「思ってたより、声、元気みたい。銀ちゃん?」 「えっ」 思わず、ぱ、と髪に手をやる。 (いやっ・・・・・・・・・・) 他人と一斉に横断歩道を渡る、傘の中。 髪先にのこる、体温。 ・・・・・・・・いやまあ。 ・・・さっき、顔をあげて坂田をみたら。腹んなかにひとつ、たまってく温度があった。 病院でも洗われた頭からもずっと、俺に注がれていたと・・・思った。あの家の温度。 そんで、そういう記憶があることは、・・・・・ゆ・・・・ゆ・・・、 勇ゲッホゴホ気、とかそんなものを急に足元から送ってくるのかもしれない。 (あいつは、そういうことを・・・・・・するから) 雨粒に、目を細める。 ・・・高杉が、俺に会わない。こどもっぽく言えば、嫌いになったんじゃねーのと。 どろどろ考えていたら、さっき、金時の話がバカみたいにあっさり、いろんな高杉をよみがえらせた。 ・・・高杉が、俺を見つけたときの、ちいさな予感を思い出した。 ほんとは、何言われんのか不安で怖いんだけど。坂田をみたとき、『行って大丈夫』、と、俺の体にたまってたものがそう言うから。 「・・・・・・・・なんだろ、坂田って・・・」 建物の窓に映った、自分の瞳がゆると光を生んだ。 「本当にね」 という彼女の声で我に返って、あわてて目を伏せる。何かフルーツの匂いが風に乗ってくる。 「うん。てことは高杉、いま居ないんだよな」 「うん。シーマもない」 「うん」 「うん、ふふ」と、謎のうんの応酬のあと、ゆっくり通話を切る。 背後で、八百屋がまだ開いてる。すこし寄ってから、タクシーに乗った。 外は、水の分だけ光がにじむ景色。 (不思議だな・・・) ・・・揺られる自分の右手を開いて、みつめる。 最低に沈みつづけていると、あるとき、とつぜん、夜の底のとうめいな部分にふれてしまうから、こわい。 余計なことが散り、自分の体に流れる感覚が冴えるから。 今、行かないと。高杉が離れるんじゃないか、というのがわかる。距離じゃなく。なにかが、離れた、ままになる。 ひとたび、車が夜をすべり出してしまえば後は、いつもの引力だけが俺をひっぱった。右手の中に掴んだものと同じ。 雨と一緒に、俺の体を通ってく、 あの夜、閃光のような感覚。 唯一無二の。・・・・極端で、強烈な。 俺はそれを、間違いようがない。 「いや本当、何だよ、あいつ・・・!」 坂田の札入れに手をつっこんでびっくりした。千円しかなかった。 二層あったら、奥に入ってる方が万札だと思うじゃねーかふつー 焦って無意識にポケットを探ったら、ほんとの一万円が出てきた。 (・・・・・・・・・・・・・・・・・・あっ給料。) ・・・そういえば、始めての給料を何に使うか、高杉に聞いたことあったな・・・・俺、お前に会いに行くタクシー代だったわ。 歌謡曲、流れそう。 金時に聞いた彼女の町近くで停めてもらい、・・・・何となく水辺の方へ足が向いた。 その角にとつぜん、高校生くらいの男女が立っていて、びくっと変なステップを踏みかける。 俺がすり抜けるまで、2人が一切の会話を押し殺す。 通りすぎたあとで、背後から、・・・ふはっと秘密の笑い声が聞こえた。 「・・・・・」 ・・・・遠くで、建物の赤いランプがゆっくり点滅していて、さみしい。 雨が、淡い。 (・・・この勘を何て言ったらいいか、いつもわからない。) この予感の先で、いつも出会う。 ガードレールにはさまれた川沿いを歩くと、いくつものさざなみが夜を流れた。 電灯がとぎれるその先で、黒いシーマが停まっていることに、俺はあんまり驚かない。 「・・・・・・高杉?」 ハァッ・・・と、歩いてすこし早くなってた自分の呼吸がわかる。 窓からのぞきこんでみると、後部座席にヤツは寝ていた。 車内にのびてる、雨の影。 ・・・すこしだけ傘をもつ指がふるえる。 高杉の額から、乗っていた腕がずれて、目が合った。 「・・・・」 あの夜の病院以来だ。 ・・・・いや何してんだよ、こんなとこで。探してたんだぞ・・・(坂田が)。・・・とか考えてる間。 追い返されたり、拒否されたらどうしようとか、ちょっと考えもしたんだけど。高杉の目もびっくりはしていない。 坂田に比べて、俺に何か聞きたいとか、説得したいとか。そういう様子も・・・ないように見えた。 でも、こっちにはある。 「・・・・な、なんか言えよ、『入るか?』とか」 どうせ、ここまで来て引けない。 「早くしろって、この雨が見えねーのかお前!」 「てッめェ元気じゃねーか」 ガンッ!と、2cmほど開けかけていたドアの残りを、高杉は足で蹴り開けた。 正直、息のんだ。 どっと全身の血がとびあがった一瞬、まぬけにも肩からすべった傘の重心が後ろへ落っこちる。 「・・・余計、濡れてんぞ」 「自分が緊張してることにびっくりした・・・」 「・・・・雨、吹き込んでんだろーが」 「ッ」 2秒ほど硬直していた手を引きずりこまれ、車内へ半ば倒れこむ。見上げた先の高杉は、腕で俺をまたいでドンッとドアを閉めた。 とたん、遠くなる雨音。 閉じこめられた空気。・・・互いを見てなくても、互いの吐息の気配がする。 『ニャーーーーーーー』 「見た今の!」 「見たようるせえなあ。たまに食ったらすげー美味ェーわ土方のバカ・・・」 俺のピザから落ちたパイナップルを、金時が拾いあげる。 ・・・何で、ふっつーに夜のリビングで俺とテーブルはさんでテレビ見てんだ、こいつ。 「いやーしかし突っ走るよね、2匹とも」 「・・・TVの話?」 「高杉と土方くん。お前って、大変だよねえ?」 「人に匹で数えられると腹立つな」 「あれ肯定しないの?」 俺はどんどん軟体になってて、答えず、ぺたと机に両腕をくっつけた。 ・・・は〜〜〜・・・・そらもう突っ走る。俺がどう悩んでようと。 やることやったら待つしかない。いつも・・・今も。 コーヒーのCMが流れる頃、ふっと電気や空間がのんびりして、金時が言う。 「何でか覚えてないけど、医者の方の兄に散々怒鳴られた後一緒に映画観たんだよ、一度だけ」 「なに急に」 俺は、空のビール缶をちょっと退けた。すき間から、一筋の青が見える。 「隣みたら泣いてんの。絶対映画の涙じゃないし、怒鳴られたのこっちだっての。困っちゃって。トラウマだよ『南極物語』」 あー・・・・なつかしい話をするからだろうか。 テレビを通り越した俺の瞳に、金髪の少年が、歩く。夜の夢越し。 俺は、そのちいさな過去の背中を、すこし見つめた。 色んなものの間で、ひらり上手くやってる。ちょうちょみたいに。 大変? ・・・・・・・・・・・・・って聞いても、お前だって、俺には絶対言わねえだろが。 「今じゃびびって、口もきいてくれないけどね」 金時が、意地悪な流し目で笑う。 それに思わず笑いを返すこういう時、俺と金時は共犯みたいだと思う。 ・・・・油の匂い、キッチンの光。金時の形をしている空気をそこに感じながら、雨音を聞いた。 テレビを見ると、カゴの中に、猫が2匹。喧嘩してじゃれていた。 「狭苦しいとこで暴れてる・・・・・たまに高杉と土方がああいう風に見えるわ俺」 「すげーカワイイってこと?」 目を閉じる。 「何か、わかるんだよ」 ちょっとだけ。・・・兄の気持ちがさ。お前がわかる、とは言えないけどね。 「・・・高杉」 窓がさえぎる遠い雨音。 シーマの後ろで、隣同士、俺たちは空気を見ていた。 「・・・・・俺からひとつ、聞いてもいいか」 「何を」 「・・・その・・あの夜のことで。いっこハッキリして欲しいことが・・・・あって」 「何だ」 短い返事。本当に聞く気あんのかな、と思って、ちらり視線をやると、髪に隠れてる。 ちょっと迷ってから、手を伸ばした。 その前髪をすこしのけたら、こっちを見る高杉の横目が浮かびあがる。俺の指から、ぱら、と束がいくつかたるんで、その瞳にかかってく。 (あ、あ・・・・・) 高杉だ。やばい 夜の車の影と光。それがひどく近くで、高杉の瞳にまじっていて、俺は自分の動悸が聞こえた。 俺を見てる。 俺を通して、なにか・・・確かめようとしてる。 高杉のその目は、いっときの情や、感情に流されることなく、真理を刺す。 (怖い) 「お前がいなくなったのは、俺に失望でもしたのかと思ってたんだけど・・・正直、今の今まで」 「・・・・」 「いや・・・・・・」 「・・・・」 「そうじゃなくて・・・・・」 言いながら、だんだん自分の目が見開いていくのがわかった。予想もしてなかった、自分の中に沈んでいた無意識が、 ぐるぐる考えている渦をのぼってくる。 「なあ高杉、すっげえ、すげえバカみたいなことを聞くと思うんだけど、い、」 いっそのこと、俺が 「・・・・・・・・・死んだ方が糧になると、思った?」 お前の 孤独とか。芸術性の (・・・うっわっ) バタ・・・と椅子に、体の側面で寄りかかった。 滅入った・・・言っただけで。内臓のエネルギーが焼ける。こんなこと・・・口に出すもんじゃない。 けど、俺と高杉は、互いが、すごく真面目な理解でつながってるのがわかった。 「いいや・・・」 高杉が、長い息を吐いて、行儀の悪い生徒みたいに、座席に沈む。 そして俺は、あ、今の高杉、坂田が安心するだろな・・・・、と。ぼんやり力が抜けたまま、思ったのだ。 「・・・・銀時に似てんな。時々」 同じ名前を言うので、まつ毛をあげた。 高杉は、片足の裏を前の座席につけて、雨のガラス窓を見ていた。 「余計なことをする」 ほそい水の影が、流れてく。高杉の髪や服を。 何か聞きかけた俺は、それを見ながら、ただ、・・・うん、と言っていた。 「今の質問に、そうだと言える根源・・・みてえなもんを」 (うん。) 「その内、俺は失くしていく。どうしようもない」 「高・・・」 「俺は、土方。そのときが来たら。自分で選べるもんだと思っていた。何を得て失くすのか」 まだ すこし 「そう思ってる」 (高杉!) あたたかい春の雨の空気が、閉じこめられていた。とうめいなしずくが光る、窓の内に。 俺は、どうしてか涙がこみあげそうな瞳で、その横顔を見つめた。 ・・・高杉が。 俺が何をどうしようが、結果死のうが。それは、俺の自由であるべきだと思ってるのを、なんとなく知ってる。 なんていうか、ほんと・・・純度が高い。「個人」であることの純度が。 だから、俺を支配しない。そこが揺らぐときだけ、反省する。 でも、俺が死んだら嫌だなと、たぶんだけど、高杉は思った。思わずにいられた自分を失くした。怖いもの知らずの感性を。 ちょっとだけびっくりして、のぞきこむ。 「悲しいのか?」 ・・・誰かを失くすことだけじゃなく 誰かを得ることも 等しく 高杉の目線が、遠くからすこし戻ってきて、ふーとくわえてるタバコを指がはさんだ。 「・・・かもな」 電灯に、煙がすける。 その言い方は、いつかの返事とおなじで、どうにもこぼれそうな気持ちでくちびるを近づけると、高杉の瞳が俺を見た。 その水晶のなかの雨音。 「・・・描く衝動がなくなる?」 「さあ。なにしろ・・・・原初的な孤独は、残るからな」 (・・・・・・・あ。) 原初の。 あの、雨の音、夜のしずけさ。西日や、遠い宇宙の、中にある。 さみしさ。 ・・・・生まれ持った ただの命だったときみたいに、知っている 「・・・高杉」 暗いせいで、お互いの瞳の水気が、外の明かりを吸いこみ、輪郭を作っていた。 絶望は絶望、孤独は孤独のままに。 その深淵まで、見つめろと、高杉の目は、いつも言う。 くちびるに触れ、高杉の右手を、自分の服の中の肌に押しあてた。高杉の視線が、一度そこへ落ちる。 まぶたを持ちあげると、その目がこちらへ戻った。 「正気か、お前」 重力で落ちてくる髪先に、水滴の光。 「、ハ」 雨音が星みたいだ。 「ア、アー・・・ヤベ、・・・」 「やっぱり痛ェんだろうが」 「ちが、ま・・・またイく」 「・・・・・」 ・・・・だって、もし、時間がめぐったとして 俺は、ファンタジーとして来世を想像する。その世界で、たとえば恋をしたり、好きな人にまた出会う。 「・・・・・」 そして、考えられないのだ。 高杉との2度目だけが 俺を見下ろす高杉に、しずかな雨が映り込んでいるのを見つめた。 この高杉は、たった一人だ。 失えば終わり。誰より、残酷で尊い。他の感情で代わりがきかない。 言葉に変換すると、精度が落ちる。意味合いの・・・精度みたいなものが。 それは、夜のとうめい感や、春の痛みを表すときも同じ。 だから、俺は・・・ ・・・ピアノを弾くんだと、思い出した。 俺には、音としてだけ降ってくる、言葉があること。 だから、弾くこと。 ・・・高杉といると、それを、よく思い出す。 互いがこの感度を持ってるのは、一回っきりだ。 この一回を (生きるしかない) (死ぬまで。) そんな風に俺の人生をつなぎとめるのは、生涯、この人しかいない。 その揺るぎようのない事実を、 俺はあの夜、右手に掴んだのだった。 「・・・・・つーか、お前よ」 パチ、と高杉が一瞬つける電気の音。 俺は、その明かりを頼りに、座席の下へ落ちたビニール袋を探した。 高杉が、俺が敷いてたタバコを見つけて引き抜き、パチとまた電気を消す。 「この手触り、ひでェぞ」 「これは坂田がハンドソープで・・・」 「どういうプレイだ」 俺がジーンズにベルトを通してる横で、高杉は、ぼこ、ぼこ、と靴を落として、足をつっこんでいる。 坂田に報告の電話をかけると、 「え見つかった? つーか土方お前覚えてろよ!」と恨みがましく言う坂田の声が、雑音と重なった。 テキトーにはぐらかすと、ため息の後で、「それで?」と聞こえる。 「高杉、何で家出したって?」 「あーと・・・・・」 俺は、携帯を耳にあてたまま、高杉を見た。 そうだな、んん、要約すると・・・・ 「俺が生きててよかったって。そう思う自分を受け入れるのにちょっと時間かかったって。痛」 椅子に手をかけた高杉が、俺の背中を蹴って、前の運転席へ移動する。 坂田の、あきれきった空気。「意味わからなさすぎて、卒倒しそう・・・」と、気の抜けたような安堵。それからほんの少し・・・何か言いたそうな。聞きたそうな。 電波がつなぐ距離に、ふと上をみた。 何かがよぎる。が、つかまえきれずに通話が終わった。 「何だその袋」 「あー八百屋通ったときに。店先にいっぱい並んでたから」 「春だからな」 高杉の左手が、ミラーをなおす。立って助手席へ入ると、袋が、さくらんぼの詰まったパックのやさしい重みで揺れた。シートベルトを引っ張る。 「・・・高杉」 そう呼ぶ、俺の声が水をこぼしたみたいだった。ずっと、体の核にあった塊のようなセリフを確かめる。 帰ろう 「坂田が、待ってる」 これ以上ない響きだと、思った。車の空気が満ちる。高杉の瞳が、フロントガラスの雨を見た。 → ← |