「今日は冴えてる」 その朝、寝癖をつけた土方はそんなことを呟きながら、急ぐようにリビングに入ってきた。 「はい?」 食パンにバターを塗っていた手を止めて、坂田は半目で見上げる。 ずれた服が、右側の鎖骨を見せていた。この前ようやく自分で味わったそこに、ちら、と視線を向ける。 ・・・いきなり何だ、こいつ。またカレーみたいなことになるんじゃねーだろな。 言っとくけど、アレはまぐれだぞお前。 けど、土方は台所には向かわず、朝飯も気にしなかった。 あれから、自分と目が合うことに、すこし、戸惑っていた様子も、今はぜんぜんない。 CD棚に歩いていって、高杉が持って帰ってきたアルバムを引っ張り出している。 高杉は、それを無言で見つめた。 まあ、自分はこれから早番でバイトだ。発明でも何でもやっててくれ。家がふっとばないていどに。 「んじゃ、行ってきますよ〜」 と玄関で靴を履いたが、さっさと行けとか、帰りに何買って来い、とかいういつもの返事はどちらからもなかった。・・・・・・いや、いいけどね、別に。 何せ今日は、約束していたDVDをバイト仲間のオッサンが貸してくれる日だ。 「このジャケットすげェな」 「へえ? うわ、地獄なんだか天国なんだかわかんねェな・・・ああでも、好きそうアンタ」 バイトから帰って来ると、二人ともステレオの前に集まっていた。 ソファーの後ろでアルバムが散乱している。 いくつものケースが開けっ放しだ。 土方は、立てた片膝に頬杖をついて、床で指をかすかに動かしていた。 (そういや、チック・コリアの時もそうだったな)、と思う。 音に集中して。耳をすませて。時に巻き戻す。 自分も高校の頃はギターを触ったことがあるから、ビートルズなんかをよく耳コピした。 その時に似てる。 この様子じゃコレは観れそうにねェな・・・・・・坂田はDVDの入った鞄をソファーに放った。 「誰ェ、これ。俺あんまピアニスト知らねんだよ」 「ミシェル・カミロ」 高杉が違うCDのケースをこちらへよこした。 ふーん、にしても、すごいリズムだ。まさか、この超早弾きを、聞けてるのか。 じっと床に落とされた視線は音を見ている。耳だけに全神経を集めている。 息が詰まりそうだ。高杉も、よくこんな光景を煙草吸いながら、壁にもたれて見てられんな。 「ピアノ買うか」 突然、高杉がつぶやいた。 その言葉に、土方がばっと顔をあげる。それからまだ続いている早弾きに、ストップをかけた。 「好きなときに弾きてェだろ」 土方は考えるように高杉を見て、「ああ、いや、いい」、と首を振った。 「ピアノは知り合いん家にあるし、やっぱアレ気に入ってるからよ」 「知り合い、いんの?」 つい、言葉に出たそれに、土方はななめ下の宙を見た。 「・・・・・まあ、・・・後輩が・・・」 「何、高校ん時の?」 土方が、その単語にますます眉をしかめる。思い出したくない所に触れられた顔をした。返事もせずに立ち上がってテーブルに置いていた煙草を一本取り出す。 土方に何かあることは坂田はもう知っている。それ以上刺激しないようにした。 高杉が持っていた灰皿に煙草を押し付ける。 「なら、楽器屋でも行くかよ」 「あー・・・行く」 「え、ちょっ、俺洗車したばっかなんだけど。小雨降ってんじゃん」 「俺の車出してやるよ」 どうでもいいけど、それって俺に運転さすんだろ、と低い声で坂田が言うのを二人とも無視した。 高杉のシーマで後部座席に土方が乗り、やっぱり運転は坂田がした。クライスラーとはぜんぜん違う。 この安定感と安心感。さすが日本車だ。 だいたい高杉は自分で運転したがらない。自転車も原付もいっつも後ろに乗ってた高杉だ。 「あーそろそろ乗り換えようかなァ。俺、イタ車が欲しかったんだよね」 「アルファロメオか?」 後ろで寝転がっている土方が瞬時に坂田の大好きな車を当ててみせ胸が跳ねた。 何で、わかるんだろう。何故か、どきっとした。 「まァ? うん? アルファは悪くないよ別に? けど、めんどいからなァ、外車・・・ま、買うとしたら断然セダンよりクーペだよ。 やっぱお尻はキュートじゃなきゃね」 高杉が横から坂田に肘鉄を入れた。シーマはセダンだ。 ショッピングモールの駐車場に車を入れる。高杉が土方を拾ってきた場所だ。 楽器屋のKORGのキーボードに土方が指を乗せた。 そこから指が動き始めると、坂田は一瞬言葉を失った。 「・・・・・・・・」 一本一本、違う生き物みたいに動く指。白い鍵盤を自由に這う。 これ、さっきのミシェル・カミロじゃねェか。もう覚えたのか、元々弾いてたのか。 このとてつもない早弾き。圧倒的リズム感。 その音しか存在しない世界に、耳が沈んでく。 まばたきもできずに驚いている自分の横で、高杉は普通にそれを見ていた。 「・・・・終わったの?」 もっと聞いていたかった。名残惜しそうな顔を隠す暇もなかったが、土方は両手を鍵盤からあげて、首をかいた。 「・・・・乗らねェ」 「今ので?」 「すげーベタ弾きしちまう・・・やっぱ指動かさねェとな・・・・・」 独り言のようにそんなことを呟く土方を、まだくちびるを開いたまま見た。 まさか土方が、こんなに常人離れしたピアノを弾くとは知らなかった。 真っ黒な台に白い鍵盤。そこに映える黒髪と、灰に青が混じった瞳。 目に焼きついて離れない。 高杉はこれ以上の何を知ってるんだろう。 「けど、今日は冴えてる。何かどんどん吸収できる気がする」 自分の指を見下ろしながら土方が言った。 高杉の目は深い。 「なあ、アレ観ていい?」 坂田は帰ってきたリビングで、やっぱり我慢できずに一応、今更昼飯を食べている高杉に伺いをたてた。今までなら、勝手に観てるとこだが、今は土方がいる。 高杉も、土方に一瞬目をやった。 「今度は何借りてきたんだよ」 「ん、普通の3P物だけど、バイト仲間がこれお前にぴったりっつうからさァ・・・」 土方が、何のDVDかに気づいてすこし箸を止めている。・・・やっぱ、まずかったかな。 坂田は題名のないDVDを心底名残惜しそうに見つめながら、はーとため息をついた。 「土方って、女としたことあんの?」 「あるけど・・・」 「えっ、あんだ」 「中1ん時に一回」 うわ早ェ。久々に聞いたわ、俺と同じ時期のヤツ。 「じゃあ、観てもいい?」 坂田は、DVDから上目遣いをやった。 「別に勝手にしろよ。つうかお前ら何で部屋にテレビねェんだよ」 いそいそとDVDデッキのボタンを押しながら、んー買うのめんどい、と適当に答えながらティッシュの箱と一緒にソファーに寝転がった。 そして、すぐに後悔した。 同居中の男2人、片方が片方の彼女を散々犯し、帰ってくる彼氏の三つ巴 ・・・ちょ、これ、まずい。何ていうか、すごく、まずい。 そういうことかよ、何がぴったりだあのグラサン。喋るんじゃなかった。 つい、スイッチを切った。 しーんとしたリビング。テーブルに座ってるだろう、高杉と土方。めっ・・ちゃ、居心地悪い。振り向けない。 「・・・3Pか」 高杉が呟いた。バカ、と坂田が額に手を当てる。 「・・・・・好きなのかよ、こういうの。レイプじゃねェか」 土方が機嫌悪そうに言う。土方もされたことがあるんだろうか。 「嫌そうだな」 「嫌に決まってんだろ、してェのかよ」 「しねェよ、嫌なら」 「嫌じゃなかったら、させんのか」 「ああ? しねェつってんだろォが、何怒ってんだ」 ああああー・・・・ 「あー・・・あー、えっとアレ! アレだ! 俺やっぱアレ観る、あの、あの、イルカの奴観る! リュック・ベッソン! 何っか急にすげー癒されたくなったコレ! ああどこだっけなあ高杉!」 結局土方は、一日中、ピアノアルバムを聞いていた。 「晩飯できたぜー」 声をかけても、ふーん、としか返ってこない。 高杉は高杉で、図書館から借りてきていた分厚い画集を持って早い内に部屋に戻った。 一人テーブルでコーヒー牛乳を飲む。土方の邪魔にならないようテレビは消していた。 ちょっと休憩しにきたのか、ソファーにどさり座った土方に横目をやる。 「・・・・ちょっと、悪かったな、今日は。知らなかったんだよ、ああいうのとは・・・」 土方は、ふっとこちらの腕の筋肉あたりに目線をやって、「・・・別に」、とそらした。 したことある同士の雰囲気が漂う。 「あー・・・そうだ、俺のラジカセ貸してやろうか? まあ、そりゃこっちのステレオはすげえから、音は敵わねェけど。すこし部屋で聞くくらいなら十分だろ、俺あんま使ってねェし」 「ふーん、じゃ、受け取ってやる。貸せよ」 「エッラそ〜に〜、ったく・・・」 いつもなら喧嘩になるとこだが、今日は引いておく。 自分の部屋から、銀色のラジカセを持ってきてやった。土方は、本当にちゃちィな、 と余計な一言とともにそれを受け取って何枚かのCDを拾い早速部屋にひっこんだ。 一人の空間の方が集中できるんだろう。 やれやれこれで、とリモコンを握るが、妙な後ろめたさで気分が乗らない。しゃーねェ、 久々に「AKIRA」読み返すか・・・いや、「童夢」が読みてェな。 あの、ぐしゃーって壁が割れるとこ。置いてあったっけ。 「・・・・おーい」 コンコン、と土方の部屋をノックするが返事がない。 そうとドアを開けると、ベッドにあおむけの上半身だけ中途半端に乗せて、 芸術的ともいえるフォルムになっている土方が目を閉じながら、とんとんとシーツの上を指で叩いている。 服がずれて、腹が丸見えだ。 棚に目を移して、漫画を探した。「北斗の拳」などがちゃんと一巻から揃えられている。几帳面な奴だな。しかし、この膨大な量。 電気を点けたい。 「・・・・・土方、」 体を屈めて小声をかけるが、聞こえてない。 「土方って」 耳元ですこし強めの声を出すと、ゆっくりまぶたが開かれた。 その瞳の色。深くて孤独で感性に、満ちあふれた。 「ん、ああ、坂田・・・」 頭の上にやっていた手をきゅうと伸ばしながら、体をくねらせて土方が息を吐くように呼ぶ。 ・・・・こいっつ。もう眠たいからなんだろうが、煽ってんだよ。 DVDのこともある。 今日見た、ピアノの前に立っていた土方の姿も脳裏に浮かぶ。 ベッドにギシリ手をついて、首元へ唇を寄せた。 「・・・・ッ、あ? おいっ・・・」 その口を、しィー、と手の平でふさぐ。たぶん高杉も部屋でまだ起きてる。 土方も同じことを考えたのか、そった首筋をなぞられながら、眉を寄せてドアを気にした。 体を床までずりおろして、ますます肌をあらわした胸元を食む。 「・・・・ふ、ン、」 土方のその顔。 初めて彼とした時は、夢中だった。何かを喋ってるのも惜しいくらい早く土方を感じたかった。 激しい性欲が止まらなかった。 やっと、自分の下で感じる顔をさせ、自分がその声を出させたのだ。 それで満足できるとは、初めから思ってない。そんな一回じゃ到底済みそうにない。 「気持ちいい?」 「ッ・・・・・、ゥ、」 土方の体を横にして、上になってる方の足をかつぎ腰を進める。 手を噛んで、きつくまぶたを閉じ声を押し殺している土方の様子がそそる。 「いいの、よくねェの」 小さく出入りするだけの動きをすると、土方が瞳で訴えてくる。 「言わなきゃわかんねーよ」 土方が物足りなさそうに体をよじった。 「・・・・・い」 「何?」 「い、い・・・ッ、」 「はい、いい子」 奥まで動いてやると、ァ、と声をあげ、瞬時に口元を押さえた。 いつもうるさく歯向かってくる土方をこうして征服するのは、快感だった。 リビングでカタリとかすかに物音がする。二人で閉まっているドアを見た。 意識をそちらへ集中している顔を見下ろす。 「・・・・ッン! く、」 一気に腰を突けば、土方がくちびるをぐっとかみ締め、非難がましくこちらを睨んだ。 低く笑う。 それ以上の音もしないし足音もないし、たぶん単にCDか何かが落ちた音だ。 膝を掴んで、本格的に動きを再開させる。揺さぶられる度に散る黒髪。ん、ん、と口の中でこもる声。 眠気や音の世界に浸ってたこともあったんだろうけれど、特に抵抗もせずに自分を受け入れる。 まずいなァ、つけこみそう。 「なァ土方、そうやってあんまり奪わせるなよ、俺に。返さねェぜ」 いく前にそう呟いたが、土方はこちらの耳元で声を殺しながら、しっかり自分の肩にしがみついて足を絡めた。 そのまま、ハァ・・・・と息を吐いて、眠ってしまう。 ・・・まったく、タチが悪い。 拭いてやった体を抱えてベッドへずりあげてやった。布団をかけ、丸いまぶたをなぞり、唇を落としかけて、(あれ、何やってんだ)、 と我にかえって離した。 俺はもう昔から高杉の面倒をみるのでいっぱいだ、他の奴をそこに入れてやる余裕なんかないんだよ。 ないはずだ。 ぱたりドアを閉めると、高杉がソファーに座っていた。つい体が固まる。 「起、きてたの?」 「ああ」 煙草をくわえて、細めた目が自分に向く。こちらを見てくる読めない視線が、落ち着かない。 それから、視線は両膝に置いている画用紙に落とされた。左手はペンを走らせている。今はもう、何となくといった感じで動かされているソレ。 後ろに回ってすこしのぞきこむ。 絵だ。 高杉が絵を描いてる。 大学に入ってから初めてだ。 「・・・・いきなりどうしたんだよ。つうか、その上の物体は何? 火星人?」 「うるせーなァ・・・気が散る・・・」 すこし虫の居所が悪そうに眉を寄せて考え事をしているような声で、邪険にされる。 それでも、坂田は柔らかく笑ってソファーの背に腕を乗せ、高杉のそれを見守った。 にしても、こいつ、ずっと、ここに座ってたんだろうか。 今まで自分が土方の部屋で何していたのかを、気づいているのかいないのかが気になったが、高杉は絵に意識を注ぎ込んでいて特に何も口にはしなかった。 とにかく、今日は土方がピアノを弾いて、高杉が絵を描いて。そんな二人がすこし羨ましくもあるが、見ていて心地いい。 すこし、目を閉じる。 土方が口にした、アルファロメオが浮かんだ。 こんな日々がいつまでも続いていくような気が、その時は、していた。 当たり前になりすぎて、もう土方がここから出てくなんてことを、考えもしてなかった。 高杉が一般とは違う変なところで機嫌を崩すこともすっかり忘れていて、この時気がつかなかった。 だって、ただでさえ、俺たちは性欲に正直で今までセックスの相手に配慮なんかしてこなかった。そのツケはまわってくる。 → ← |