隣の土方さん 山崎は考える。 昨日、2つ100円で買った桃の缶詰を風呂あがりに開けながら、「近所付き合い」というものについて、山崎は、考える。 じつのところ、最近そればかり考えている。 まな板と鍋を置いたらそれで一杯になってしまう台所と、狭い風呂と、段差のあるトイレのついたアパートに入居してきておおよそ1ヶ月になる。 適応能力については自信があったので、そこに関しては不自由ない。 犬の鳴き声がうるさいのはどこでも同じだし、近くにレンタル屋があり、駅まで歩いて10分であることが特に素晴らしく、妙な幽霊のうわさもない。わりかし一般のアパートである。前住んでいたところから失くして惜しいと思うのは、可愛い女の子が笑顔で挨拶をしてくれることがないことだ。非常に寂しいけれど、それ以外の、問題の近所付き合いについては、だいたい、同じだろうと思っていた。 だって経験上、同じアパートの住人なんて、こんにちは、とさえ言っておけばいいのだ。 山崎は猫も飼わないし大音量で音楽も聴かないし生活が不規則な仕事もしない大学生である。 今まで、全ての近所付き合いはそれで済んでいた。 昔の生活内だけだと思っていたのだ。「あのう醤油貸してもらえますか」、とか、「いやあカレーが余っちゃって」、とかいうセリフが存在するのは昭和にだけだと、思っていた。 したがって、そんな言葉を生の人生で聞くことなど一生ないと、ついこの前まで信じきっていた。 「あのーちょっと、マヨネーズ、貸してもらえませんか」 隣の人が言うのである。 レポートにうんうん唸っている時に言う。醤油でも塩でもなくマヨネーズと、そう言う。 隣のひとは、唯一の隣の人にあたる。 202号室である。 土方さん、という。 隣の土方さんとは、3回ほどだけ面識がある。 まず引越し当日に、廊下ですれ違った。 一応礼儀だから、ダンボールを抱えたまま軽い自己紹介でもしようと思ったら、あまりにもとっつきにくそうな雰囲気と、 流しているような黒い目元におされて言葉を失ってしまい、目が合いながらも無言で後ずさってしまったのが初対面であった。そんな自分を、土方さんは眉を寄せてすこし睨んだ。 次の日、タオルセットを持って挨拶に行ったら留守だった。 ちょっとほっとして、メモを入れ、ドアノブにかけておいた。 その次の日、自分のドアノブにかけ返されていたのが2度目の接触である。 3度目はそれをきっちり往復、繰り返したことだ。 なんて人だ。と思ったけれど、もう関わり合いになることもないだろうから気にしないことに努めていたら、急に夜にピンポンと押してきて、 隣の者です、といって、「あのーちょっと、マヨネーズ、」そんなものを、借りようとしてくる。 衝撃であった。 山崎はそのときシャーペンを持って裸足で玄関に出たまま、一瞬だけ固まり、うそォ、と思った。 隣人と会話することって、あるんだ。貸し借りの近所付き合いって、あるんだ。 でも何でよりによってこの人がくるんだ。たじろいでしまった理由は知らない。何せ、可愛くて感じのよい人なんかではおよそない。 ただちょっと男前で、ちょっと全身のバランスがいい、ちょっと目をひくだけの人だ。しかも粗品の件では失礼だ。 「いや、ちょっとが、足りなくて」 引き続き土方さんが言う。 「あー・・・あり・・・えますよね」 ありえる。ないことは、ない。 マヨネーズがちょっと足りないくらいで他人に借りにいくまでの情熱を自分は知らないけれど、ひっくり返るほど驚くことでもぎりぎりない。 とても歯切れ悪く同意すると、土方さんはごく当然といった感じで、頷く。 「じゃあ・・・あの、ちょっとその」 みてきますという意味で部屋の中を振り返りつつ指さすと、土方さんはまた頷く。玄関に入りざま、勢いよくおでこを打ち、額をおさえながら慌てて冷蔵庫の中をみた。 絶対ないと思っていたのに、ちっちゃな四角の袋に入ったやつなら2つ、あった。近所のたこ焼きについてくるものである。とってて役に立ったのは初めてだ。 玄関に戻って土方さんにそれを渡すと、ひどく不満そうな顔をされた。 渋い。 とても、渋い。 受け取らない彼をぎこちなく見返す。アンタのちょっとって、いったいどれくらいなんだよ。 「もういい。買いに行く」 そこで記念すべき人生初めての隣人とのふれ合い体験はなんとか終了した。 しばらく、胸の奥あたりが、どくどくと耳にまで響いていた。 そのまま階段を降りて行く失礼な隣の土方さんについてとりあえずわかっていることは、 マヨネーズに関して妥協は絶対できない主義であるということと、タオルは間に合っているということだけであった。 山崎は近所付き合いに免疫がない。 それが最近ずっとそのことばかり律儀に考えてしまう理由である。未遂とはいえ貸し借りをした仲になると、例えば、次に会った時どういう挨拶をすればいいんだろうか。 「こんにちは」 それじゃァ、今まで通りだしな・・・ 「あ、あの時はどうもどうも、いやァー、マヨネーズ、どうなりました?」 ・・・聞くほどのことでもないよな。 そうして一人で散々挨拶に悩んでいるのに、その日から土方さんは見ない。 数えて3週間ほどになる。 ただ間接的に意識することはあった。 帰ってきて階段をあがってくると、廊下にふと目につくものがある。2階の住人は自分か土方さんか、なので推測するまでもなく床に置いてあるそれらは彼の物だとわかる。銀色のアルミの灰皿である。その横に白い陶器の灰皿がある。側には土産のようなガラスの灰皿があり、その向こうにスタンド式の灰皿があった。 なんの祭りかとおそるおそる覗き込んでみたら、ぜんぶ濡れていた。 (ああ。洗って、乾かしているのか) あの狭い間取りの中でこれだけの灰皿をどこにどう置いているのか不思議でならない。必要性も感じない。拭けよ、と思う。几帳面なのか何なのかいまいち掴めない人だ。だいたい誰かに蹴られたりしたらどうするんだろうと心配したそばから、自分がスニーカーの先でアルミのやつをはじいてしまった。 山崎にはそういうところが、ある。 カランカラン、といい音が反響しておもわず、きゃあああ、といいながら自分の部屋に逃げ帰った。 あとはベランダである。 山崎は時々、隣との隔たりを、じ、と眺めた。緊急時はここをやぶって隣に逃げて下さい、とかなんとか書いてある、あれである。その緊急時についてTシャツを干しながら考えてみた。隣というと土方さんのところに逃げ込むことになるわけだ。なにせ緊急だから遠慮する必要もなく乱入する。もしカーテンが開いていたら中が見える。 ・・・風呂上りとかで全裸だったら、どうするよ。その姿のまま驚いた顔して、「どうした! 大丈夫か!」、とか言ってくれるんだろうか。髪とか、濡れててさ。腰とか腹とか、平たかったよなー・・・・。いやいや、想像するな。 いや。でも。もし。 妄想が膨らんでいる内に、そういや彼のパンツとかこっちに飛んできたらどうしよう、とどうでもいいことまで考え出す。持って返しにいくの、すごく、恥ずかしい。思っていたら隣のガラス戸が開く音がして、瞬時に湿ったTシャツを抱えたままゴロゴロ、ローリングで部屋に転がり込む。 「あのー、その、も、桃の?ですね」 甘い缶詰の汁をふきながら、言ってみた。それから、ため息をつく。山崎は、向こうがせっかくマヨネーズを借りに来てくれたのだから、こっちも何かしなければ、とよくわらかないにままにその方向で一直線に思っていた。だから、この桃缶を、余っちゃったんですけど、と渡しに行こうと思うのだ。時々笑い声が耳につくテレビをちらりみて、汁のとんだレポートの紙をだらしなく振る。 昨日大学の講義が終わって食堂で友人にそのことを話してみたところ、いや深く考えなくていいだろう、というのが返ってきたじつに簡単な答えだった。 それにはだいぶ拍子抜けしたものである。もっと俺の身になって真剣に考えろよ、と半分涙目になって詰め寄ったものである。「いや、おま、何をそんなに必死なんだよ」、とうんざりされたときは、あれそうだよねえ、と自分で疑った。 「そりゃあ、その人とどうにかなりたいなら、別だけど。」 近頃そういう話題に飢えていてかつ好奇心みなぎる女の一人が笑って、いう。 いや、どうにかって! 山崎はそばを吹きだした。 「だって、部屋が隣同士の関係なんて、ライオンと弱ったシマウマくらい絶好のシチュエーションでしょう」 いや、シチュエーションも何も、そんなじゃないから! 俺ライオンとか、柄じゃないから! だいたい、土方さんは雰囲気が怖くてちょっと見惚れてしまうようないやいや、お礼もいわないマヨネーズ馬鹿でお尻のちっちゃいいやいや。ただの隣人だ。 山崎はこれまでの人生を、人あたりよくして生きてきた。人間関係は分け隔てなくまあるくつきあっていきたい人間であった。そう、彼との付き合いについてこれだけ真剣に考えてしまう理由は、あくまでそれだけだ。それだけなんだ。 今、桃だってちょうどそれなりにおいしかった。2つ買ったから、1つ残っているのだ。それをおすそ分けに行くことは、不自然なことではない。決まったら、あとは行動だけだ。何せ、向こうが先に訪ねてきたのだから。そうそう。 それでもいざ、彼の部屋の前に立つと、なんだか緊張してきた。缶詰を両手で握り締めなんども深呼吸をする。練習にやや不安が残る。 「桃の、2つで100円で、ほら、だから余るでしょう、桃、好きですか?」 背筋を伸ばして顔をあげて、いってみる。 「きれいな桃は好きですか?」 CM風にいってみる。 「おい、桃好きか。ちょうどいいのが、あんだけどよ」 肩をななめにして、口調を変えていってみる。よし、あの人はなんかこんな感じだろう。山崎は成果にそれなりに満足した。 おい。 はい。 「・・・ぶつぶつうるせえんだけど。演劇部か?」 「んッぎゃァ!」 びっくりした。 急に、後ろから声がかかったことに、びっくりした。 悪いことをしていたわけではないけれど、背中が冷や汗で、つめたい。冷たくてあつい。振り向いた先には、どこかから帰ってきたらしい隣の土方さんが立っている。 この人はなんだか、立っているだけで、映える。髪も目元も黒くて、白い辺りのなかで、咄嗟に開いてしまった目に、よく目立った。2度しか見ていないけど、頭の中の彼と変わっていない。ありのままの隣の土方さんだ。断然周りにいないタイプだ。ついつきまとう苦手意識はそのせいなのかもしれない。話すのはあの日のふれ合い以来で、いたたまれなくて、焦った。 「す、好きですか?って聞いてたんです」 「お前は、ドアが友達か」 「や、いえ、土方さんに。す、好きですか?」 無言が返ってくる。しばしの沈黙の後、「何が」、と聞かれた。低い、いい声をしている。男なら一度はこんな声で女を口説いてみたいものだ。 そうして、自転車のベルなんかが聞こえる夜の空気の中で山崎は急にわからなくなった。 近所付き合いというものについてこの三週間あまりに煮詰めて考えすぎていたせいで、今、ほんとにわけがわからなくなった。漢字をじ、と見つめていると何これと不思議になるのと同じ感覚である。そしてパンクした。ようはハイになったのである。 「土方さん! 桃、食べなきゃだめです。食べなきゃだめって、だめって、よく田舎のおばちゃんのお兄さんが言ってたような気がするんです!」 「・・・ああ、そう?」 「そーうなんです、だから食べてください、ね! いいでしょ、缶詰ですけど、あの、ほら、余っちゃったんで」 土方さんは、何でもないみたいに、例のいい声で、「わかった」、といった。たぶん万が一とんできたパンツを返しにいってもこう言うんだろう、と思う。そして時間が遅いときに大声を出してはいけない、と常識的なことを言った。ありがとう、が言えないタイプなんだろうなあ、と缶詰を握り締めたままぼんやり思った。 それから、マヨネーズを取りに帰ってうちにきた土方さんは、玄関できれいに靴をそろえた。白い靴下で床にあがって、迷いもせずテーブルの前であぐらをかいた。本棚の漫画にすこし目をやった。それから、「げ、なんかベトベトする」、といった。俺が今さっきまでそこで食べていた桃の缶詰の汁だ。そして、手の側面を、なめた。 ・・・弱ったシマウマ。なぜか友人の言葉がよぎって、すぐに頭をふる。 「で」 「はい?」 「缶詰って、普通、余るものなのか」 マヨネーズのかかった桃を口を開けて食べながら土方さんが、まだ立っている自分をすうと黒い目元で見上げる。 思わず、半身あとずさった。 ・・・それも、そうだ。しかし、この人は流し目を使うのが癖なんだろうか。 初めて見た時も何にたじろいだのかよくわからなかったけど、今ようやく理解できた。色気のせいだ。そんなものを備えた男の人は現実世界で初めて見たから、それも隣に住んでなんかいて、どうすればいいのか、見ているだけで、困るのだ。その上、初めての貸し借りの事件がやってきて、そりゃあパンクもしちゃうよね、と自分を肯定してみる。 「いやあ、その」、ともごもごいっていると、「まあいいけどよ」、という。 とにかく、そうして彼は山崎の桃を食べた。これで近所付き合いは成立したといえる。何だかんだいって新しい人とのつながりを築くのはいいものだ。達成感に、じーんとくる。 近所付き合い、悪くない。 蛍光灯でつやと光る彼のくちびるを見て見ないフリをしつつ、思った。面白そうに口はしをあげるそれは一体どういう意味かを、赤くなって考える。 あんがいこういう人に限ってウブだったりするのに、無意識なのだろうか、頭の中でぐるぐる回る、遠くで馬鹿にするみたいに、犬が、吠える。山崎は棚に背をつけたまま、「ごちそーさん」と親指で口元をぬぐう土方に、「えへえ、へ、へへ」と不気味な愛想笑いをして、目を閉じた。 (・・・ああ、どうか道を踏み外しませんように。) 隣の土方さんとの近所付き合いについては、先行きそれだけが心配だ。 |